刊行物「美学芸術学」目次
美学芸術学二十七号(2011)
円山応挙の写生と絵空事
—登龍門図をもとに— ……… 水谷亜希
円山応挙(一七三三〜一七九五)による《龍門図》(重要美術品、京都国立博物館蔵、以下「京博本」)は、登龍門の故事を題材にした作品である。絹本着色の三幅対で、左右幅には悠然と泳ぐ鯉が、中幅には滝の中を垂直に昇る鯉の背中が描かれる。本論では、この京博本を具体的な作品として取り上げ、「写生の画家」と言われる応挙が求めた造形と、その意味について論じる。
第一章では、京博本の概要について述べる。京博本は、中幅だけが縦に長いという特殊な形式を持ち、応挙は、その画面上の計算された位置に、写生をもとに整理・整形した鯉の形態と、波紋や水流を配置することで各幅を構成した。さらに各幅を組み合わせ、異時同図法のような画面にすることで、緩急のダイナミックな運動感を表現している。
第二章第一節では、この京博本の特徴を明らかにするため、応挙以前に描かれた登龍門図との比較を行った。その結果、伝統的な図様が、鯉の特徴や生命力の表出を求めるあまり、大げさな鯉の姿と具体的な環境描写を行ったのに対し、応挙は水流のみで滝をしめし、そこへ写生に基づく鯉を透かして見せたという違いが明らかとなった。そのため応挙の作品では、大げさでなく自然らしい、本当に生きて登るように見える鯉の表現が可能となったのである。
第二章第二節では、応挙の登龍門図の変遷を追うことで、応挙の挑戦と試行錯誤を明らかにする。応挙は、はじめ伝統的な構図を描きながらも、やがて鯉を背中から捉えるという新しい構図を考案する。その後、真実らしく見える「渓流登り」を描くものの、最終的には京博本のような「滝登り」の表現を選択した。こうした変遷からは、応挙が現実の再現ではなく、写生という技術によって「絵空事」を現実のようにしめそうとした姿勢が明らかになる。
第三章では、京博本中幅の鯉の鱗にのみ、金泥が施されているという新事実に注目する。それは「鯉が龍に変化する」という劇的な瞬間を表わすための工夫であった。
以上の考察から、本論ではこれまで「写生に徹した淡泊平明な画風」と語られてきた応挙の絵に対して、異なる見解を提示する。つまり、京博本には、見る人を楽しませ、驚かせようとするエンターテイナーとしての応挙の姿勢が、強く反映されていたのである。「応挙の写生」とは、スケッチをそのまま作品とし、現実を再現することを目的としたものではなかった。写生という技術を用いて、「絵空事」が、あたかも鑑賞者の目の前に存在しているかのように現すこと、それこそが応挙の目指した絵作りだったのである。
マンテーニャ作
サン・ジョルジョ城内礼拝堂祭壇画再考 ……… 小松原郁
初期ルネサンス期北イタリアの画家アンドレア・マンテーニャ(1431-1506)が一四六〇年代初頭にゴンザーガ家の為に制作した、マントヴァのサン・ジョルジョ城内の礼拝堂のための作品は、当時極めて高く評価されていた。しかし早くも一六世紀に礼拝堂は解体されたために、その構成作品すべてが四散してしまっている。この礼拝堂祭壇画の構成作品と推定されるものには、現在トリプティクに仕立てられたウフィツィ美術館所蔵の《マギの礼拝》《キリストの割礼》《キリストの昇》の三点、さらにロンギが再構成上で元来一つの作品とみなしたプラド美術館所蔵の《マリアの死》およびフェッラーラ国立絵画館の《マリアの魂を抱くキリスト》の2点があげられる。しかし資料の不足と、祭壇画構成作品と推定される作品の主題の特異性のために、この祭壇画の再構成は未だ決着を見ていない。
従来これらの作品は、一四六〇年から六四年の間に制作され、マントヴァの聖遺物キリストの血と、侯の自己称賛との関連において解釈されてきた。しかし、図像の上からマントヴァのサン・ジョルジョ城礼拝堂と結びつけられる作品は《聖母の死》のみであり、またウフィツィの祭壇画と《聖母の死》の主題的連関についても解決されていない。にもかかわらず、これらの作品は一つの礼拝堂のための作品として考察されていることには疑問が残る。そこで本論では、改めてこれらの作品の制作年代、主題選択の意図を再検討することで新たな解釈を試みた。
まずは、様式的観点から、《聖母の死》とウフィッツィの祭壇画との差異を指摘する。ウフィツィの祭壇画については、現在の枠組み内の配置を再検討し、左右の翼を入れ替えた配置を提唱したうえで、これら三作品については統一した構想のもと制作されたと解釈する。また、他作品との様式比較から、制作年代については、《聖母の死》は一四六〇年代初頭であることを確認し、ウフィツィのトリプティクについてはさらに図像と主題の面からトスカーナ美術との関わりを指摘した上で、画家の一四六六年のフィレンツェ滞在以降に位置づける。主題選択の観点からは、ゴンザーガ家のマリア信仰に着目し、ゴンザーガ家が、注文作品においてマントヴァをマリアの庇護下にある都市として位置づける意図を持っていたことを示した。
これらのことから、トリプティクと《聖母の死》は個別の作品として作られており、サン・ジョルジョ城礼拝堂作品として考えられるのは《聖母の死》のみであると結論づける。トリプティクに関しては、一四六六年以降に、サン・フランチェスコ聖堂内のルドヴィーコの葬礼用の礼拝堂のための作品として注文された可能性を指摘する。
森山大道『写真よさようなら』における表象批判について
—暗室作業を手がかりに— ……… 松浦葵
本稿は、写真家・森山大道(一九三八−)が一九七二年に写真評論社より出版した写真集『写真よさようなら』を取り上げ、本書における森山の試みとその手段に関する再解釈を試みるものである。
モノクロ写真一四五点で構成された本書の特徴として挙げられるのは、像のブレ、ピントのボケ、粗い銀塩粒子、強烈な白黒のコントラストといった不鮮明さであるが、本書は従来これらを中心に論じられることが多かった。しかし、本書にはフィルムの枠やパーフォレーションが画面内に写し込まれているものが点数にして半数近くを占めており、その数と被写体の混同」という、現実の出来事と写真を同一視してしまう傾向に対する批判を企図したのだと述べていることから、この写真集においてその目的のためにフィルムの枠やパーフォレーションを画面に写し込んだのではないかということを本稿で検討していく。
そのために以下の手続きをとりたい。まず、第一章では『写真よさようなら』の概要と先行研究の内容を整理した上で、森山が試みた批判の内実を明らかにする。次に第二章ではパーフォレーション等が画面中に写し込まれた写真がこの写真集に多数挿入されていることに注目し、写真を知覚する方法に転換を生じさせることを論じる。第三章では、本書が発表された一九七〇年代初頭における写真やその他のイメージのあり方とそれに対する森山の態度を明らかにする。そして最後に、物質としてのフィルムの姿が暴露されることこそが彼の批判の骨子であったという結論を導き出す。
田中一村と海上派
—呉昌碩に魅せられたものと《クワズイモとソテツ》— ……… 森下麻衣子
田中一村(一九〇八−一九七七)は一九五六年に単身奄美大島に渡り、そこで生涯を閉じるまでの二十年近く亜熱帯の動植物をモチーフにし、奄美の自然を神秘的かつ力強く描き出した。奄美時代の代表作に《奄美の杜⑥〜クワズイモとソテツ〜(以下クワズイモとソテツ)》がある。そこには、彼が若い時代に海上派から学び取ったものがあると指摘されている。
一村は十代後半になって、それまで描いていたおとなしい南画から、中国・上海の海上派に倣った華やかで豪壮な南画を描くようになった。このような一村の南画に関して、先行研究は、趙之謙(一八二九−一八八四)の作品や呉昌碩(一八四四−一九二七)の書画譜の模写を通じて海上派を学んだことや、南画を描いていた経験が奄美での作画に影響があることを示唆してはいるが、それが何かを具体的に論じてはいない。そこで本論は、一村が海上派のどのような点を評価し、そこから何を学んだのか、そしてそれが奄美での作品にどのように影響しているのかを明らかにすることを目的とする。
そのための手続きとして、まず第一章「海上派と日本南画壇」で、当時日本にも多く南画の大家が活躍し、新南画という日本画における新傾向も生まれている中で、中国の上海の画派である海上派を一村があえて選び学んでいたということを確認する。海上派とはこの時代に上海の新しい富裕層に向けて花鳥の生き生きとした様を明解かつ華やかに描いていた画派である。そのことを踏まえ、第二章「一村の海上派学習」で、海上派に倣っている一村の南画作品を分析することにより、一村が、海上派の描き方の、うごめくかたち、近接拡大した構図、色彩と墨による強烈なコントラストに特に着目し学び取り、それらを強調することによって対象の持つエネルギーを画面に表現しようとしていることを明らかにする。そして第三章「奄美時代に引き継がれたもの」では、奄美において描かれた作品、代表作《クワズイモとソテツ》を取り上げ、そこには彼が写真の構図や西洋の絵画などから多くを学び、様々に画風を展開してきた痕跡が見られるが、主要なものとして画面を支配しているのは海上派から学んだ描き方であり、それによって表現される生気が画面にみなぎっていることを確認する。