刊行物「美学芸術学」目次
美学芸術学二十五号(2009)
野島康三の陶磁器写真 —柳宗悦と富本憲吉のはざまにあって— ……… 越前俊也
野島康三(一八八九−一九六四)は、大正から昭和のはじめ(一九二〇年代から三〇年代はじめ)にかけてピグメント印画法による力強い人物写真を制作したことや、新興写真の作家を一堂に会した専門誌『光画』の発刊(一九三二)で中心的役割を担ったことで日本写真史に名を残している人物である。彼はまた白樺派の文士たちとの交流や、富本憲吉や岸田劉生のパトロンであったことから、大正から昭和にかけての美術界を語る上の重要人物として多くの言説を集めてきた。だがその野島が生涯少なくとも三度にわたって陶磁器の写真撮影に関わったことに関しては二〇〇九年七月京都国立近代美術館で彼の個展が開催されるまで、その内容を詳細に検討する機会に恵まれてこなかった。本稿の趣旨は、同展の成果を踏まえた上で、野島の「陶磁器写真」が、どのような特徴を持ち、またそれがどのような意義を持つものであるかを検討することにある。
一九二二年、野島康三は柳宗悦の依頼により二度にわたって陶磁器の撮影を行った。いずれも柳の出版に関わる仕事であり、そのうちの一つは雑誌『白樺』が李朝陶磁器を特集した九月号に掲載したものである。いまひとつは柳が同年一二月に上梓した著作『陶磁器の美』に掲載するためのものであり、柳はこの写真に関して、「野島君の好意と技術とで非常によく撮影された。必ず読者を喜ばすことと思ふ。余りよく写せたので挿絵十二枚の予定が十八枚も入れることになった」と述べている。柳は野島の写真の何を評価したのか。それは何と比較して「よく写せた」と判断したのか。その内容を探ることが本稿の最初の目標である。次に、ならば、柳が「読者を喜ばす」とした写真を野島がなぜ制作することができたのか、その淵源を探ることが本稿の第二の目標である。
一九三三年、野島は三度目のそして最後の陶磁器撮影に関わる仕事を行う。『富本憲吉陶器集』という名の作品写真集で、実際の撮影は野島の写真館に長く勤めた錦古里孝治という人物が行った。野島は同撮影に関しては監修という立場で記録されているが、野島と富本の公私にわたる関係の深さ、野島と錦古里の師弟関係から察するに同書における写真制作者としての野島の担った役割の重要性がうかがえる。そしてこの『陶器集』には先の『白樺』や『陶磁器の美』の野島撮影による陶磁器写真とは異なる特徴が認められる。それはまた柳が一九二〇年代に比較した野島以前の陶磁器写真とも異なる特徴を示している。ならばなぜ野島がこのような陶磁器写真を制作したのか、その理由を探っていく。
結論として一九二二年に野島が柳の意向のもとに撮影した陶磁器写真と一九三三年に富本の陶器撮影を監修した写真のあいだの差は、この一一年のあいだに変わった写真家・野島の志向性の変化ばかりではなく、やはりこの一一年のあいだに袂を別った柳と富本の陶磁器に対する志向性の差であることを読み説いていく。
夫婦の記念碑
—リューベンス作《聖イルデフォンソ祭壇画》の図像解釈— ……… 芦刈歩
《聖イルデフォンソ祭壇画》(1630−32)は、リューベンス(Peter Paul Rubens, 1577−1640)後期の作例としては稀な三連祭壇画で、リューベンスが仕えた大公妃イサベラ・クララ・エウヘニア(Isabella
Clara Eugenia,
1566−1633)による最後の注文作品である。この作品はもともと、ブリュッセルにあるカウデンブルフのシント・ヤーコプ聖堂内聖イルデフォンソ礼拝堂のために描かれたものであるが、一七七七年にマリア・テレジアのコレクションに入れられ、ウィーン美術史美術館へと至っている。
本発表の目的は、祭壇画内部「上祭服を賜る聖イルデフォンソ」及び両翼の寄進者像を取り上げ、画家がこの記念すべき作品に込めた意図を、図像学的方法によって解釈することである。
この作品に捧げられた研究史を振り返ると、独創的な図像解釈を示したエヴァースや、祭壇画の美術史上における位置づけに独自の見解を見せたグリュック、これらを受けて主に色彩を中心とした様式上の特質に着目しつつ、リューベンスに先立つ作品群との比較から論考を試みたブルッヒャーのものがとりわけ質・量共に見るべきものがある。しかしこれらも含めて先行研究では、聖イルデフォンソ伝説自体の図像化の伝統についてはあまり注意を払ってきていないように思える。そこで本発表では、聖イルデフォンソ図像伝統を再検証しつつ、本作品の意味解釈を試みたい。
はじめに第一章では、当時のネーデルラントの政治的状況および作品が寄贈された聖イルデフォンソ兄弟団について述べ、団体の性格とこの聖人の持つ意味について確認する。第二章では、作品の主題に着目し、源泉とされるテキストを紹介する。その上で伝説の図像化の伝統を辿るとともに、次第にテキストからの逸脱が生じることを指摘する。一方、この逸脱がリューベンスの作品にも見られることにも注目したい。さらに画家と同時代の作例から、聖イルデフォンソ図像は対抗宗教改革の旗印としての聖母図像に含まれることを明らかにする。第三章では作品の予備的な習作群から完成作品へ至るまでの変更点を手がかりとして、具体的な図像を分析する。その際に、重要な鍵としてカトリックにおける聖母崇拝の象徴についても考察を加えたい。
そうして本論では、画家は対抗宗教改革期にカトリック教会や王族たちによって大いに利用された聖母図像を応用することで、「カトリックを礼賛し王権を擁護する」という祭壇画の目的と聖イルデフォンソの主題とを合致させ、さらに祭壇画の持つ夫婦の記念碑としての独自の意味合いをも、破綻なく画面に盛り込もうとしたのだと結論付けたい。
「長恨歌絵」の変容 —奈良絵系《長恨歌絵巻》を手がかりに— ……… 村木桂子
白居易の詩「長恨歌」は、唐の玄宗皇帝(六八五〜七六二、在位七一二〜七五六)と楊貴妃(七一九〜七五六)の悲恋を詠ったものである。この「長恨歌」の世界を描いた絵画は「長恨歌絵」とよばれる。文献資料によれば、九世紀には宇多天皇の命により「長恨歌」の詩の場面を描いた屏風絵が制作された。その内容は恋愛をテーマとする文学的情趣を重視したもので、貴族の嗜好に適うものだった。近世になると「長恨歌絵」は、より通俗的な絵画である奈良絵においても描かれるようになった。本稿で取り上げる大阪大谷大学所蔵《長恨歌絵巻》はこの奈良絵の一例である(以下大谷本と称す)。
この大谷本は縦三十四糎、三巻からなり、江戸時代前期に多く制作された大型の奈良絵巻である。金泥を用いて四季の花木や鳥、流水などが描かれた料紙には、流麗な筆致で詞書が書かれており、金箔、金泥を多用し、明るい色調の彩色が施された土佐画風の絵巻物である。小林健二氏の先行研究によると、この大谷本は江戸時代初期に刊行された、「長恨歌」の注釈書である『やうきひ物語』を粉本として、《長恨歌絵巻》の制作が行われたと指摘されている。
本稿の課題は、大谷本が『やうきひ物語』を粉本として用いたことの意味、また、『やうきひ物語』という版本から絵巻に形態を変えたことによって起こった変容、その理由を明らかにすることである。
それを明らかにするために第一章では、大谷本の典拠となった『やうきひ物語』が、「長恨歌」の注釈書である『長恨歌抄』と同一の内容であることを確認し、その性格を明らかにする。
第二章では、版本と絵巻の両者に共通する場面での、玄宗と楊貴妃の描き方に注目し、この絵巻が楊貴妃を中心に描いていることを確認する。さらに両者に共通する場面でありながら、絵巻のみに追加された植物のモチーフに込めた意味について検証し、それらのモチーフを用いることによって、この絵巻では楊貴妃の存在が版本より重視されていることを述べる。第三章では、絵巻に新たに玄宗と楊貴妃の恋愛の象徴である「比翼の鳥、連理の枝」を連想させるモチーフが描かれている三図を追加することによって、女性への愛の強調がなされていることを指摘する。
マンテーニャ作<夫婦の間Camera degli sposi>
—主題解釈に関する一考察— ……… 池田郁
本論では、アンドレア・マンテーニャ(Andrea Mantegna, 一四三一−一五〇六)がマントヴァ候ルドヴィーコ二世・ゴンザーガ(Ludovico Gonzaga,
一四一二−一四七八)の依頼を受け、サン・ジョルジョ城の一室に描いたフレスコ画装飾、通称〈夫婦の間〉camera degli
sposiについての図像解釈を試みる。本作品は一四六五年から一四七四年にかけて制作された、マンテーニャ三四歳から四三歳頃の作品である。ゴンザーガ家の集団肖像画二面の主題解釈、そして部屋全体の図像プログラムの解釈は、今なお議論の中心となっており、とりわけ古典受容に関しては多くの先行研究があるが、本論では古典的モチーフに加えて今まで看過されがちであったキリスト教主題の引用について焦点を当てたい。
まず注目すべきは西壁《邂逅》の背景に描かれたマギの一行である。これは、西壁に描かれたエピソードの日付をはっきりさせる目的で描かれた、と考えられている。しかし本論では、背景都市を分析し、西壁および北壁の構図を考察することで、壁画全体がマギの礼拝に見立てられていることを主張したい。それによって、一四六〇年に新しく聖遺物が認められ、巡礼地として脚光をあびたマントヴァを新しきエルサレムとして位置づけようとしていることを明らかにする。また、これまでほとんど言及されてこなかった浮彫のの柱頭飾りもキリスト教的なモチーフとして引用されていることについても指摘する。
そしてこれらを統括するのが、上からすべてを見下ろしている謎めいた天井画である。これは、クジャクや女性によって結婚を象徴的に表現している。論者はこれを、壁画に描かれたすべての権威の根源であるルドヴィーコ候とバルバラの結婚が神意によることを意図して描かれた、つまり、マントヴァ侯爵家の正統性を神格化する図像プログラムの要であると結論づけたい。