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刊行物「美学芸術学」目次

美学芸術学二十一号(2005)

印象主義の「印象」とは何か ……… 伊達立晶

一九世紀フランスに生じた「印象主義(impressionnisme)」は、戸外の世界に対する画家の「印象」を作品化する立場であると、一般には見なされている。この見解に即すならば、印象主義は、主観性が強いとはいえ、なお写実主義の延長線上にあるものと理解されよう。実際こうした理解のもと、印象主義に対する反動として、内面的表現を目指す「表現主義(Expressionismus)」が二〇世紀のドイツに生じたのだった。しかし「印象主義」という語が現れた当初、その「印象」とは、必ずしも「戸外の世界に対する画家の印象」を意味するものではなかった。周知のごとく、「印象主義」という語は一八七四年四月二五日に『シャリバリ』紙に掲載されたルイ・ルロワによる記事「印象主義者の展覧会」に始まるものであるが、当のルロワはむしろ作品が享受者に与える「印象」を問題にしていたのである。この記事でルロワは、筆致の粗い絵画を「印象主義」の絵画として批判するとともに、「作品内に印象がある」という奇妙な口実でそれらの絵画を擁護する論調をも徹底的に揶揄している。それではルロワが想定しているこの「印象主義」擁護論はどこからくるのだろうか。
本稿では、このルロワの記事の直前、四月一二日付のマラルメによる絵画評「一八七四年の絵画審査とマネ氏」に注目する。というのもマラルメはここで、作品内に「印象」があれば筆致の粗い絵画であっても十分に仕上がっていると論じており、立場こそ違え、ルロワの主張と論点を共有しているからである。そしてこのマラルメの主張を検討するなら、「印象」という用語がポーに由来するものであり、むしろ「享受者が作品から抱く印象」のことを意味していることが明らかになるだろう。ルロワの記事は、直接的あるいは間接的にこのマラルメの主張をふまえたものと考えられるのである。さらにこの考察により、印象主義が外界の印象を作品化する運動に還元されず、すでに具象性の捨象という反・写実主義的方向性を内包していたことも明らかになる。

日本北方民族学・考古学と絵画
─「クマ祭り図」の分析をとおしての問いかけ─ ……… 池田貴夫

本論文は、アイヌの生活や習俗、使用する道具などを描いたアイヌ風俗図について、図自体の総合的解釈、分析が十分なされないままに、史実を明らかにするための資料として使用されてきたという問題点に焦点をあて、特に一八世紀中頃から一九世紀にかけてさまざまな絵師によって描かれてきた「クマ祭り図」を、史実とイメージのはざまに揺らぐ存在としてとらえ直すことをとおして、日本北方民族学・考古学と絵画資料との関係の実態をより深く導き出し、筆者なりの問いかけを行おうとするものである。

第一章では、アイヌのクマ祭りについて概観のうえ、日本北方民族学・考古学におけるクマ祭り研究の動向を記し、それらの研究や成果の普及の中で、『蝦夷島奇観』に描かれたクマ祭り図が多く参照され、引用されていることを述べる。

第二章では、一八世紀中頃のクマ祭り図の登場以降、特に一八世紀末に成立した村上島之允『蝦夷島奇観』から一九世紀末にかけて描かれたクマ祭り図を概観し、『蝦夷島奇観』のクマ祭り図を換骨奪胎した絵画が、一九世紀末期に多く登場する現象を明らかにする。

第三章では、『蝦夷島奇観』とは異なった作風の沢田雪渓『蝦夷熊祭乃図』と橋本芳園『蝦夷風俗絵巻』さえも、個々のモチーフを詳細に分析した結果、『蝦夷島奇観』など先達の作品に通じるモチーフが認められることを述べる。

第四章では、以上の事実から、一九世紀末において、絵師、クマ祭り図を欲する人々などの間に、『蝦夷島奇観』を基準作としてとらえようとする、いわば「クマ祭り図社会」が存在したであろうことを示し、一九世紀末という時代は、約一世紀前のある地域におけるクマ祭りの姿で、アイヌのクマ祭りの総体を説明し、イメージを植えつける時代であったことを提示する。

むすびとして、『蝦夷島奇観』のクマ祭り図を、史実を明らかにするための絵画として多用する場合、現代の研究者社会もまた、一八世紀から一九世紀にかけて創られた「クマ祭り図社会」のイメージ世界、そして当時の異文化への眼差しを踏襲しているとの見方も成り立つことを述べる。また、『蝦夷島奇観』の多用は、アイヌ文化の中核たるクマ祭りについて、その多義性、多様性を顧みない画一的なイメージを植えつけ、アイヌ文化の変容過程と地域差を無視したアイヌ文化観を後世に伝えかねない危険性があることを指摘する。そのうえで、史実とイメージのはざまに揺らぐアイヌ風俗図を、美術史的あるいは芸術論的に省察することが重要と訴え、芸術学や美術史が多民族共生の立場から芸術論を振り返り、日本辺境文化史の議論の中に参加していただくことの必要性について、問いかける。

《勝興寺本洛中洛外図》を読み解く
─画中の少女を鍵として─ ……… 内村周

富山県高岡市には、雲龍山勝興寺と呼ばれる浄土真宗本願寺派の大寺院があり、六曲一双の洛中洛外図屏風(通称《勝興寺本》)が伝えられている。慶長末年から元和初年頃(およそ一六一〇年頃)の京都の景観を描いたもので、作者は狩野孝信周辺の狩野派正系の画家によるものであると考えられている。寺伝によると、この《勝興寺本》は鷹司関白准后の息女が、勝興寺の十五代住職摂常に嫁ぐ際に持参したものであるという。しかし、この鷹司関白准后とは天保十二(一八四一)年二月七日に八一歳で亡くなった鷹司政煕のことで、摂常も、文化元(一八〇四)年九月二〇日に生まれ、天保五(一八四三)年三月七日に亡くなっていることがわかる。

すると鷹司関白准后の息女は、婚礼の際におよそ二〇〇年前に制作された屏風を携えて、京都から勝興寺へとやってきたことになるが、嫁入りの際に、大作とは言えわざわざ骨董品とも言うべき古い屏風を持参したのであろうか。ここで勝興寺本をめぐる大きな謎にぶつかるのである。先行研究では現在のところ、この謎に取り組んだものはみられない。国の重要文化財には指定されているが、《勝興寺本》そのものの作品研究については、残念ながら未だ十分には行われていないのである。

本論では、この《勝興寺本》をめぐる謎に対して、新たなる解釈を試みるものである。それは、鷹司関白准后の息女の話から離れ、《勝興寺本》の持つ特徴から鑑賞者像を探り、その上で勝興寺に作品が渡った契機を探ることにより、明らかにするものである。

《勝興寺本》には凡そ次のような特徴がある。いわゆる「時世粧」描写に乏しいこと。傘を差してもらう少女の姿が描かれていること。公家町の描写に詳しいこと。西本願寺の御影堂に障屏画が画中画として描かれていることである。これらの特徴により、《勝興寺本》は「公家と西本願寺に所縁のある女性」を鑑賞者に想定して、制作されたことを指摘する。勝興寺の歴代住職について探ると、慶長年間に八代住職昭見と本願寺准如の娘の婚約に関する記述が見付かる。つまり、本論における新たなる解釈とは、《勝興寺本》は、八代住職昭見のもとへ、本願寺准如の娘が輿入れする際に、勝興寺へ伝わったというものである。

鉄川与助の教会堂における意匠的要素 ……… 和賀圭史

長崎県は早くから宣教師たちが訪れ、カトリックの教えを広めた土地である。なかでも五島列島に点在する教会堂(天主堂)はその往時を偲ばせる。そしてそのほとんどは今も現役の教会堂として活躍し、島の信者たちの心のよりどころとなっている。そしてそのような教会堂の建設に関しては、異国からはるばる布教のために来日した宣教師たちの技術や知識を抜きにしては考えられない。「パリ外国宣教会」のマルコ・マリ・ド・ロ神父、ペール神父たちこそ、五島におけるキリスト教の教会堂建設の草創期を担ったのである。しかしながら彼ら宣教師たちのもとには日本の優れた棟梁・工匠たちも集まり、彼らの共同作業によって建てられたものも少なくない。宣教師のもとで技術および知識を学び、獲得した日本の棟梁たちは、やがて自らの設計・施工によって、教会堂を建設するに至る。そのような建築家として鉄川与助が挙げられる。彼はペール神父から天主堂建築には欠かすことのできない幾何学やリブ・ヴォールトの工法を学び、外観はまさにフランスの聖堂を思わせるような教会建築をいくつも建設していった。しかしながら、その教会堂は中世ヨーロッパの教会堂の完全なるコピーではなかった。時代も場所も遠く隔たった十九世紀末の長崎地方において、日本人棟梁が西洋のそれを再現することは困難を窮めたに違いない。建築材料として選ばれたのは主に木材と煉瓦であった。そして教会堂にはフランスのそれとは異なり、瓦葺の屋根、木造の柱と窓枠などが用いられている。石造の重厚な壁面や天井を支えるものとして発展してきた西洋の教会堂のヴォールトや柱の構造とは異なり、日本のそれらは構造から比較的自由であった。そして鉄川はそのような条件下において、意匠的要素を多用した独自の教会堂を建設していく。

本論の目的は、日本における教会堂が日本人棟梁の手により、西洋の教会堂を模範としながらも独自の発展を遂げ、西洋の伝統的な構造から機能的に解放されることで意匠化の道を歩んだことを指摘することである。そしてその前段階として、十六世紀と十九世紀に日本に布教に訪れた宣教師たちの教会堂に対する意識とその作品と鉄川の作品を比較・検討することで、前者が機能的・実用的な教会堂を目指したのに比べ、後者のそれには意匠的要素が看取されることを指摘する。

ドラクロワの絵画におけるグランド・オペラの受容と変容 ……… 河合貞子

ドラクロワの絵画を論じる際「音楽」抜きでは語れない。音楽はドラクロワの絵画が近代絵画へと転換する際に重要な役割を果たしたと考えられるからである。観るものの魂に直接訴える絵画を目指すドラクロワにとって「絵画で情感(sentiment)を描くこと」は、当時画壇を支配していた新古典主義への反発、超克を目指すものであり、同時に新しい絵画創造への模索と結びついていた。「視覚芸術である絵画でどのようにしたら情感を表現できるのか」という問題は、当時、既に情感の表現を達成していた「音楽」との比較考察へと導いた。それは一方では情感という眼に見えないものをいかにして具体的な個物を通して表現するかという美学的問題に彼を対峙させ、他方では彼を色彩や形態など従来の伝統的手法の変容に立ち向かわせた。このことは生涯にわたるドラクロワの膨大な記述から読み取れる。ドラクロワは音楽との共通点、相違点を考察して行く中から自らの新しい絵画創造の手掛かりと方法を獲得して行くのである。

本稿ではそのような観点に立って、ドラクロワが新しい絵画創造を始めた一八二〇−三〇年代に時期を同じくして隆盛してきたオペラとの密接な関わりを論じるものである。本論は第一に一八二〇−三〇年代のドラクロワが絵画と「音楽」をどのように捉えていたのかを、彼自身の『日記』から読み解き、ドラクロワが新しい絵画語法を獲得する際にスタール夫人の著作から影響を受けていたことを示す。第二にドラクロワにとって現代的な情感として捉えた「パッシオン」と「メランコリー」という情感がオペラにもみられる共通する情感であったことを明らかにし、絵画におけるドラクロワ独自の情感の表現法を示す。第三にこれらの情感の表現はオペラと共通する「オリエント趣味」の主題領域で具体化されたことを確認し、オペラを受容することによってドラクロワの絵画は近代絵画への指標を示すものに変容されたことを結論とする。

中世末期の降誕図における幻視文学の影響
─『いとも豪華なる時祷書』二おける「キリスト降誕」と聖女ビルギッタの『啓示』─ ……… 木田沙弥佳

『いとも豪華なる時祷書』は、ベリー公ジャン(1340−1416)に献じられた国際ゴシック様式を代表する彩飾写本であり、本稿で採りあげる第44フォリオ・ヴェルソの挿絵「キリスト降誕」は、時祷書の中心である「聖母の聖務日課」の一時課の扉絵として描かれたものである。

多くの研究者たちによってランブール兄弟の作とみなされているこの降誕図は、口から黄金の光を発し精霊の鳩を送る父なる神の図像、その光を受けながらみずからも光り輝く幼子の図像、そして、その幼子の前で跪いて礼拝する聖母マリアの図像が同場面に組み込まれているため、「キリスト降誕」図像としてはきわめて異質な新しい表現となっている。

フランスの中世美術史家エミール・マールは、一三〇〇年頃に書かれた偽ボナヴェントゥラ(ca.1300)による『キリストの生涯についての瞑想』という幻視文学の影響下において形成された、幼子を礼拝する聖母マリアの図像表現が、一三八〇年から一四二二年のシャルル六世時代のフランスにおいて、新しい図像を形成する契機となったことを指摘している。くわえて、一九七〇年代のミラード・ミースの研究、および一九八〇年代後半のレイモン・カザルの研究などが示唆していたように、スウェーデンの聖女ビルギッタ(ca.1303−1373)の『啓示』という幻視文学がアルプス以南の文化圏に知られることにより、およそ一三八〇年頃、イタリアのトスカーナ地方のフレスコ画や板絵などの細部描写に著しく影響を与え、シャルル六世時代のフランスにおけるランブール兄弟の写本彩飾に影響を及ぼすに至ったと推察される。

本稿では、これらの先行研究を踏まえたうえで、幻視文学による中世末期のキリスト降誕図への影響に焦点を絞り、まず二つの書物の影響によって、すなわち、一つは『瞑想』を着想源とする、跪いて幼子を礼拝する聖母マリアの図像と、他方は『啓示』に由来する神秘的な光を発する幼子の図像によって、この両者を主要な構成要素とし、ランブール兄弟による「キリスト降誕」の図像が成立したことを示す。くわえて、ランブール兄弟の「キリスト降誕」におけるもう一つの際立った大きな特性、つまり、画面中央を貫くように上方の神から地上へと垂直に降下する強い光によって、父なる神、精霊の鳩、幼子キリストの三者が「聖三位一体」の形式で表現されていることについて、神学者ジャン・ジェルソン(1363−1429)によってベリー公ジャンのために一三八〇年頃に編纂された『瞑想』のフランス語訳である、『恵み深き我らが主イエス・キリストの生涯』という書物を文献学上の典拠として指摘する。