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刊行物「美学芸術学」目次

美学芸術学二十二号(2006)

明治時代のミケランジェロ受容年代史 ……… 中江彬

明治時代には日本美術史を編纂する規準としてミケランジェロの芸術が紹介される。最初は明治十三年の『画遊席珍』の「ミケランジェロ略伝」であり、師を凌駕するミケランジェロが紹介され、明治十六年には中江兆民訳の『惟氏美学』は、粉本主義を打破する規準にシスティーナ礼拝堂天井画をとりあげた。明治二十一年には原田直次郎の「ミケランジェロ略伝」はミケランジェロの性質を「清廉淡泊」として倫理性を与え、明治二十二年に岡倉天心の『国華』二号掲載論文「狩野芳崖」は、ミケランジェロと芳崖を「古人を凌駕する」芸術家として同等に評価して、日本美術史創作の起点をつくりだした。

明治二十三年、東京大学教授外山正一は国粋主義の立場から原田直次郎の《騎龍観音》を批判したとき、ミケランジェロと西郷隆盛を「無私」の人として賛美することで西郷復権と英雄崇拝の歴史画奨励に拍車をかけた。外山を森鴎外がハルトマン美学で批判したが、用語は難解であった。写実的な風景画を描いていた高橋由一は明治二十四年に《日本武尊》に悲運の西郷隆盛のイメージをこめて、西郷復権を後押ししたとき、工部美術学校の教材《踊る牧神》を応用したが、その精神はミケランジェロ的であった。明治二十六年、東京大学にはケーベルが東京大学に美学講座を開設し、美学者高山樗牛を育てた。

日本の植民地政策は銅像制作を活気づけ、明治二十六年には《大村益次郎像》が靖国神社に姿を現すが、高い台座の手本は、フィレンツェのミケランジェロ広場にある《青銅のダヴィデ》であった。明治二十七年の日清戦争は、志賀重昂に国粋主義的『日本風景論』を書かせるが、内村鑑三はその国粋主義をミケランジェロの彫刻で批判した。フランスから裸体のある装飾壁画をもたらした黒田清輝は文部大臣西園寺公望の支援で東京美術学校の西洋画科の教官になり、装飾壁画《昔語り》を発表したとき、ミケランジェロの《ダヴィデ》を手本にしていた。そして明治三十一年に完成した西郷像も設置の仕方は《青銅のダヴィデ》が手本であった。明治三十四年には、東京帝国大学美学教授大塚保治が黒田の裸体画の擁護と見せかけてミケランジェロの《最後の審判》への裸体画批判例をヴァザーリの『ミケランジェロ伝』そのままに紹介した。

ニーチェ哲学を紹介した樗牛が明治三十五年に没し、明治二十八年、夏目漱石は『吾輩は猫である』のなかにニーチェとミケランジェロが合体した精神で日露戦争を批判したとき、ニーチェ哲学が理解されだし、白樺派を生み、この同人たちによってミケランジェロの本格的な研究が始まる。しかし、大正時代の閉塞的な教養主義からは、明治時代の激烈な批判精神は欠如していったように感じられる。

ラスカの喜劇『魔女』の前口上と梗概を巡って ……… 近藤直樹

一五〇八年、アリオストの『長櫃騒動』によって誕生したイタリア・ルネサンス喜劇は、古代ローマの喜劇をそのモデルとしていた。イタリアの劇作家たちがラテン喜劇から継承したものには、登場人物の類型や物語の基本的な枠組みといった戯曲の素材だけでなく、公演の前に語られる「前口上」と「梗概」もあった。「前口上」が、新しい喜劇の詩学を述べる場として、十六世紀を通じて隆盛を極めたのに対し、喜劇の粗筋を紹介する「梗概」の方は、徐々に姿を消していき、世紀半ばのフィレンツェにおいて、「梗概不要論」が盛んに書かれることになる。

この梗概不要論から三十年ほど後に、アントン・フランチェスコ・グラッツィーニ(ラスカ)は、二本の喜劇を発表し、そのそれぞれに、特異な「前口上」らしきものを付している。喜劇『魔女』に付された「前口上と梗概の口論」には、この両者が登場し、それぞれが相手の不要論を繰り広げる。「前口上」は詩学の指針に従った学識ある喜劇を提唱し、一方の「梗概」は、楽しみのための喜劇論を開陳する。

だが、梗概不要論が流行した当時にはそれに触れることすらなかったラスカが、三十年の時を経て、なぜ「梗概弁明」とも言うべき書を公表したのだろうか。その鍵となるのは、「口論」中に見える、コンメディア・デッラルテとアカデミア・フィオレンティーナに関する言及である。

一五七八年、コンメディア・デッラルテの劇団ジェロージ座が、フィレンツェ公演を成功させている。おそらくこの公演を目の当たりにしたラスカは、「即興喜劇の俳優たちを讃えて」と題する詩を書いている。ラスカは、文人たちによる学識に満ちたラテン・モデルの喜劇とコンメディア・デッラルテを対比させ、後者に軍配を上げさせている。同様に、『魔女』の「口論」においても、「前口上」が「ザンニ芝居」を嘲り、「梗概」がそれを弁護する場面が描かれている。詩と「口論」の両者において、共通した図式が使用されているのだ。

また「口論」の中には、アカデミア・フィオレンティーナを擁護する「前口上」と、その堕落ぶりを嘆く「梗概」といった場面も見られる。ラスカは、アカデミア発足当時の主力メンバーであったが、後にトスカーナ大公の介入により、会が人文主義化していく過程で距離を置くようになり、一五八二年、奇しくも喜劇『魔女』発表の同年に、自らが中心となって別の組織、アカデミア・デッラ・クルスカを発足させている。「捨てられた籾殻」を逆説的に自認する同アカデミアの創立当初の立場は、アカデミア・フィオレンティーナの高踏化、ラスカ的には「堕落ぶり」を批判するものであり、「前口上」と「梗概」の対比に重ね合わせることができる。

レンブラントの《アンスロとその妻》をめぐって ……… 光岡幸治

《アンスロとその妻》(Br.409)(一六四一年 ベルリン国立絵画館)は、レンブラントの数少ない二人肖像画の代表作である。この作品の場所は説教師アンスロの書斎であり、画面のほぼ左半分は、絨毯が斜めに掛けられた机、その上には燭台や書見台に載せられた聖書などが置かれた室内空間で占められている。モデルである二人は概ね画面の中心線より右側に位置し、非常に大胆な構図となっている。

この二人肖像画に先立ち、一六四〇年の年記のある素描(Ben.759)(パリ、ルーヴル美術館)が残されている。椅子に腰掛けたアンスロは左手で机上の聖書を指し、右側の仮想の相手に話しかけている。アンスロのこのポーズはヨハネス・エリソン夫妻の対幅肖像画(Br.200,347)(一六三四年 ボストン美術館)における夫エリソンのポーズを左右反転させたものとの類似性がみられる。また、アンスロ夫妻の二人肖像画のサイズはこの対幅を合体させたサイズとほぼ一致するものである。こうした点を踏まえると、聞き手としての妻を描いた素描の所在は知られていないが、レンブラントは当初、対幅の夫婦肖像画の依頼を受けたが、二人肖像画の制作へと変わっていったと考えられる。

アンスロ夫妻の二人肖像画においては、夫アンスロの姿は一回り大きく描かれ、その存在感が強調されている。夫婦間の距離は接近し、二人の親密感が色濃く表現されている。また、妻と聖書の中間に位置するアンスロの左手は光によって強調され、両者を関連づけるきわめて重要な役割をはたしている。アンスロの視線については、妻を意識しつつ広く正面に向けられている。そのためアンスロの「声」は妻とともに絵をみる者にも向けられ、我々もアンスロの言葉を聞いているような思いをいだかされるのである。

《アンスロとその妻》について、その構想段階を含めた詳細な考察を通して、驚きさえ感じさせる数々のレンブラントの創意をみることができる。また、この作品にみられるように肖像画に物語画的要素をこれだけ巧みに取り入れた表現は、対幅の肖像画ではほとんど不可能といえるだろう。劇的な描写ながら落ち着きと深さをたたえたこの作品は、バロック的様式が後退しつつあったレンブラント中期の特徴をよく示しているとともに、彼の後年の作品を予感させるものであり、きわめて多様な要素を含んでいる。また、肖像画と物語画との関連性や接点を広く考えるうえでも、完成度の高いこの二人肖像画は最も重要な基準作として位置づけられるものである。

聖像破壊としてのミケランジェロの《フィレンツェのピエタ》破壊
—イタリア宗教改革との関連からみた解釈— ……… 嶋谷昭彦

ミケランジェロは、ヴァザーリやコンディヴィの記述によると自分の墓碑にしようと『フィレンツェのピエタ』を彫っていたが、一五五三−五五年頃突然これを破壊してしまう。その彫刻作品中に未完成作の多い事を特徴とする彼が、放棄する前に破壊しようとしたと記録されているのはこの一点だけであり、この異例な事件についてこれまで様々な説が唱えられてきた。筆者は前論文でこの破壊の現状について説明すると共にこれら諸説の代表的なものを幾つか紹介し、図像学(イコノグラフィー)的見地からこの問題に一考察を加えた。本論はその続編にあたるものであり、今回は図像解釈学(イコノロジー)的見地から、当時ミケランジェロが友人であるペスカラ侯爵夫人ヴィットーリア・コロンナを通じて影響を受けていたイタリア宗教改革との関連において、この破壊が作家本人による聖像破壊であったのではないかという仮説を提示することを試みる。

第一章では、宗教改革運動全般における聖像問題(カルヴァンらの急進派においては最終的な破壊に至りさえする)の意義と実情について述べる。そして第二章ではドイツや他の北方諸国のようには成功せず、一五四二年のローマ異端尋問所の設立とそれによる弾圧で未遂に終わったイタリア宗教改革運動の特徴とその展開、並びにその運動の中でのヴィットーリアの位置について述べる。次に第三章では、この頃ミケランジェロによって描かれヴィットーリアに贈られた三点の素描作品が、イタリア宗教改革の本旨である主の受難の信仰による救済という教理を表していること、そして同じ頃に作られた『フィレンツェのピエタ』も同様の思想を図像化したものであることを論じる。最後に第四章では、前述の聖像崇拝と共に宗教改革によってばかげた迷信として批判された免償という二つの問題の交差する位置に本『ピエタ』作品があったにもかかわらず、宗教改革の影響を受けていたミケランジェロが本作品を制作した背景には、決して聖像破壊にまで至ることのなかったイタリア宗教改革の中途半端さと共に、本『ピエタ』作品のように主の受難の信仰による救済を図像化した作品は宗教改革においてもむしろ推奨されていたという事情があると思われる。それにもかかわらず、ミケランジェロが本『ピエタ』作品を破壊するにいたったは、神の図像を多用するキリスト教がその発生時から内に孕んでおり、宗教改革の時に噴出した神の形象化不可能性という問題が彼の念頭にあったからではないかという結論に至った。

徳川美術館所蔵《胡蝶の調度》の制作に関する試論
—《初音の調度》との比較から— ……… 森戸敦子

徳川美術館所蔵の《胡蝶の調度》(以下、《胡蝶》と称す)は、《初音の調度》(以下、《初音》と称す)と同じく、寛永十六年(一六三九)九月に三代将軍家光(一六〇四−五一)の長女千代姫(一六三七−九八)が、尾張徳川家の嫡男光友(一六二五−一七〇〇)に嫁いだ際に持参した蒔絵の婚礼道具である。『幸阿弥家伝書』によれば、制作者は幸阿弥家第十代長重の工房で、千代姫誕生の寛永十四年に発注され二年後に完成したとされる。いずれも『源氏物語』から「胡蝶」巻と「初音」巻に主題を取材したものであるが、所用者が一人であるにもかかわらず、異なる主題に基づく二種類の調度群が制作された理由についてはあまり言及されていない。

従来の研究においては、《初音》のみに巻名歌の葦手が使用されている点、《初音》の一部器種のみに加飾材料として珊瑚が用いられている点、などが両者の相違点として指摘されてきた。このような中、山本泰一氏は、『源氏物語』の原典を参照することによって、《初音》が「仏教の極楽浄土」と「和」を表し、《胡蝶》が「道教的な神仙世界」と「漢」を表すものと指摘され、物語の舞台となる六条院が「仏教と道教および和と漢の両者が備わっていたからこそ、源氏の繁栄が叶ったのだと考えて、二種の意匠を調度に採択したのではないだろうか」と考察されている。これらの見解は、《胡蝶》と《初音》という二つの調度群の性格を把握するためには極めて示唆的である。

本稿の目的は、先行研究を参照しながら、器種の品格や重複、技法や素材、樹木のモチーフを《初音》と比較しながら、《胡蝶》が《初音》に比して、調度群全体としてどのような特徴を持っていたのかということを、改めて問い直すことにある。

第一章では、先行研究を参照しながら、《初音》と《胡蝶》の両調度群における器種の品格の差異、および、器種の重複、技法や材料の差異を比較する。その結果、《初音》が重要度の高い器種に一部は珊瑚を用いるなどして制作された主となる性格をもつ調度群であるのに対し、《胡蝶》はやや重要度は落ち、より控え目な性格をもつ調度群であることを指摘する。第二章では、両調度群の画面展開、および、樹木のモチーフを比較し、《初音》には一見ノイズに思われるモチーフが多様に描かれているのに対して、《胡蝶》にはそうしたノイズが見られないことを考察する。その結果、《初音》がより寓意性が高いのに対し、《胡蝶》のモチーフはより整理されたものとなっていることを指摘する。第三章では、樹木モチーフをテクストによって考察すれば、《初音》が明石の御方を賛美するのに対して、《胡蝶》が紫の上を賛美するものであることを指摘する。

これらの手続きによって、《初音》がより公的な場に与するのにふさわしい器種と意味を持っているのに対し、《胡蝶》はより私的な性格の強いものであること、また、《胡蝶》が《初音》の持つ物語的・吉祥的意味を補完するものであることを指摘し、同じひとつの婚礼の中でも異なる場を想定して制作された可能性について言及したい。