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先生に聞いてみよう!

2015年度

同志社大学文学部文化史学科所属の井上雅夫教授にインタビューを行いました!

––––今回は大きく三つのことを伺いたいと思っています。一つ目は、学生の変遷です。井上教授は長い間、同志社大学で教壇に立っていらっしゃるということで沢山の学生を見てこられたと思います。長期的な視点だからこそわかる学生の変化について伺いたいのです。二つ目は文学部について、最後に文化史学についてのお話を伺いたいと思っています。
 まず最初に、この記事の読者の皆様にも井上教授の人柄や雰囲気を伝えるために自己紹介からお願いします。

井上雅夫先生
自己紹介
 僕は経済学部出身なんです。はじめは必ずしも歴史だけやっていたわけではなかったんです。だけど歴史は好きでした。経済学部に入ったときはそれほど意識していなかったんです。どこでもいいと思っていた。まあ、いいかげんな学生だったんですね。だんだんこの学部は面白くないなと思いました。それで、最終的に大学院では歴史学を専攻することになりました。

井上先生の学生時代
 当時は大学紛争の時期で政治的に活発な学生がいた。これは僕から言わせれば、一部を除いて当時の雰囲気に流されている学生が多かったんですね。要するに、あまり何も考えないで周りがそう言っているから同じようにそう言ってる学生が多かったんです。僕はそういう方向と違うどころか、いろいろな点で反対でした。当時のそういう政治的な態度は、左翼的な感じが強かった。当時はまだ冷戦体制で、ソ連とか中国などへの憧れが強かったんです。それとアメリカを中心とした自由主義国との対立構造がありました。

講義の進め方––––幅広い授業と歴史の見方
 歴史は単なる「事件の歴史」ではありません。時間の流れや政治的な動きだけが歴史じゃないんです。文化とか生活、全てが歴史と関係があります。一つの時代を理解しようとしたら、政治の動きだけでは理解できません。あるいは事件の動きだけでわかるわけではありません。その事件や政治が重要であったとしても、その背景が大事なんです。動いているのは人間でしょ。極端に言えば、「人間とはどういう存在か」ということとも関係があります。
 歴史をやっていたら人間の活動全てを考えなくてはなりません。だから、そういう意味で広い歴史の方が僕は好きだし、教える時もそういうやり方の方が好きなんです。もちろん僕は西洋中世史を専門で教えているけれど、その授業での前期の授業は広くやってます。後期は狭いところ、専門的な分野を扱っています。だけどその専門的な歴史をやるためには、前期の広い歴史が必要なんですよね。僕はそう思っています。
 僕のゼミでいろんなことを認めているのはそこにあります。初めからあまり専門的なことは求めません。ゼミと言えば専門的なイメージあるでしょ。だけどそれよりか広くいろんなことを勉強しながら歴史を見ていくのが僕のやり方かな。それで卒論で優れたものができるとは限りませんが、それはそれでいいんですよ。それよりか学部の時代には歴史をもっといろんな面から見る、その見る目を養ってもらいたい。
 僕は西洋史やっているでしょ?西洋史だけを見てると、西洋史はわからない。本当は。だから僕の授業は日本のことや東洋のことも入れるんです。これは単なる比較ではありません。西洋をより理解しようとすると、それが必要なんですよね。実際、西洋だけやってたらわからないでしょ?西洋の特色が一体なんなのかとかね。

––––日本人が西洋史を研究する意義の一つは、やはりそこにあるんですよね?

 そこにあると思います。特に日本は明治以来、西洋との付き合いを好むと好まざるに拘わらず付き合ってきた。最近では「グローバル化!グローバル化!」と言いだしてきた。グローバル化とは、どこの国もその個性を失うことかといえば、そうではない。日本は日本の個性をしっかりと持つべきで、それこそが世界を豊かにする。世界が同じ基準になったらおもしろくない。日本に来た外国人も「これが日本だ」と思うところに良さがある。我々だってヨーロッパに行ったときに、ヨーロッパの特色がなかったら面白くないですね。それぞれの土地の文化や伝統といったその土地で育まれたものを大事にする。それをお互いに認識することが大切です。だからグローバル化は単なる同一化であってはならないですね。

学生の変遷
 僕が教え始めた頃はまだまだ政治的な雰囲気が大学の中にあって、学生運動=政治運動、極端に言えば、ある種の革命運動がありました。過激な運動が多かったんです。そういう雰囲気の中での学生––––今の学生はそういうのはないからね––––それは随分と違う。当時はその意味で先鋭的な発言をする学生が多かった。ちょっと過激じゃないかとおもうような発言です。授業がやりにくいこともありました。今はそういう政治的なところにあまり振り回されていないと思う。もちろん政治に関心をもつのはいいんだけど、昔みたいに取り憑かれたように、本人の信念が本当にあったのかどうか怪しいようなものとは違って、今の学生は、そんな雰囲気からはかなり自由になったと思う。この意味ではもっと落ち着いて自分の生き方を考えることが出来るようになったはずです。

80年代の学生
 その頃には学生が今言ったような意味において落ち着いてくる。そういう意味で熱心に勉強をする学生や真面目な学生が多くなってくる。ただ、昔(政治運動している頃も含めて)はサボる学生が多かった。今はわりと熱心に出席する学生が多い。その点では真面目なんですよ。是非はともかく、以前は授業にほとんど出ない学生がいた––––教師自体も休講があったり。今はシラバスがあるアメリカ式の方法になってきたけど、当時は授業にスケジュールがあったわけではありません。昔は大まかに「こんな授業をします」という感じだけだった。だから授業の内容は受けてから初めてわかる。でも今は違う。だけどそれはプラスの点マイナスの点があります。授業をする側にとっては、あまりにスケジュールをきっちり決めてしまうと、授業が縛られた感じに固定化し、生気がなくなってしまう。やはり授業はそのときそのときによって、いろんなものを付け加えたり削ったりします。だから本当はもっと変幻自在な動きがあってもいいんですよ。昔はそれが強かったんです。先生もどちらかといえば授業から脱線する先生も多くいました。今はそんなにしないんじゃないかな、僕自身もしないけども。ずっと本題ばっかりやっている先生が多い。教師側も学生側も全体的に真面目というか生真面目になった。カリキュラム通りに動くようになってきた。でも、そこに遊び(余裕)がない。遊びがないから面白みがないこともある。逆にいうと、規格品ばかりで学生も「これさえすればいいんだ」という意識が出てきて、自分でプラスして何かやってやろうという人が少なくなってきたんじゃないかな。
 昔は授業も今と比べたら厳格じゃなかったから、学生もサボる可能性も高かったし、サボっても構わないと思っていた。良く言えば学生は自由に自分で何かをする時間が多かった。それをうまく生かした人間は将来伸びていくよね。今はそれがない。どちらかといえば、自由に何かをする時間が狭められているような印象がある。授業回数も15回に増えて、授業内容が計画的になって、緩んだところがなくなった。その辺がかえって問題を持つようになった。大きく言えば、学生の生活の自由度がなくなったと僕は思っています。その自由度のなさとは縛られているという意味ではないけれど。昔の学生はそれぞれが個性を持って学生生活を送っている印象が強かった。勿論それは、悪い方へ行けばものすごく悪くなってしまう。うまくやれば、学生生活のなかでしかできないようなことをたくさんした学生も多くいた。

––––それが変わりだしたのはいつ頃なんでしょうか?

 ここ10年20年くらいかな。だんだん文科省の大学に対する圧力が強くなってきた。15回授業するのもそう。あるいは「シラバスを作れ」とか「アンケートを取れ」とか「授業の内容やあり方はこうしろ」とか、事細かに指導してくる。それは見方によってはいい面もあるけれど、教師それぞれの授業の個性を失わせることにもなります。昔は今よりも教師それぞれの授業の個性が強かった気がします。教師が自由にできた。授業に幅があった。もちろん悪い面もあるけれど、授業に多様性や特色、個性があったことは事実ですよね。学生も自分なりの生き方をしていた。今の学生は良く言っても悪く言っても平均的になってきたと思います。

––––平均的な学生が増えて全体的な学力は向上していますが、突出した学生は少なくなっている印象です。

 全体的にB・C(優・良)の成績の学生が多くなってきました。反対に、A(秀)の学生が非常に少ない。逆に昔はAの学生もいたけど、D(可)やF(不可)の学生も多かった。だからと言って、DやFをとった人の人生が悪くなるかといったらそうではないけどね。以前はそういう個性が許された時代でした。
 近頃は「体調が悪いので休みます」という学生が多い。20年、30年前はそんな言い方することはありませんでした。体調不良で休んでいるなんて、なんとなく軽い感じがしますね。ちょっとのことで休んでいるような。みんなが体力的にも精神的にも弱くなっているんじゃないかと思います。この10年ぐらいの現象なんです。その意味でちょっと甘えがある。昔は多少体調が悪くても無理して来ていました。時に我慢することも必要です。今は恵まれすぎているんですよ。生まれた時からなんでもあるわけでしょ。だからこれが当たり前だと思っている。もう少しみんな強くなっていいんじゃないですか。
 それからもう一つ、問題なのは携帯電話とインターネットです。これは僕らの時代にはなかった。これがあるかないかがとても大きい。これがないって想像できないでしょ?たしかにそれは便利だけど。辞書でも電子辞書を使うでしょ?あれは簡単に答えが出て途中を抜かしている。紙の辞書だったらいろんなところを、途中を見るよね。そういう回り道をしたり寄り道をしたりするけれど、一見無駄なことをすることが今は少なくなった。それは効率的なように見えるけれど、長い目で見たらそれはマイナスになる。山登りに喩えるならば、一気にヘリコプターで頂上に行くみたいな感じ。だけど山登りの本当の良さは、歩いて登ることです。時間はかかるけど途中で色んなものを見るでしょ。ヘリコプターでは見ないものを見る。それに意味があるんです。今の学問のやり方はヘリコプターで上へ「ポン」と行っているようなものです。

文学部は何をしているのか
 よその人は、文学部を「文学」部だと思っている人が多いんですよ。国文学や英文学ならそうだけれど、歴史や哲学や美学は違う。以前は教育学部も心理学部も文学部に入っていました。本当は「文」学部なんです。要するに理系ではないということ。「理」学ではなくて「文」学。「文」はなにも文学に限らない。「文」学とは広い意味で人間学だと考えたほうがいい。人間の生き方を考える学問なんですよ。特に歴史はそうです。文学部の役割について、確かに文学部に入ったからといって、すぐに商売や事務ができるわけないし、或いは物作りができるわけではない。すぐに役に立つものではない。例えば文学部を出て会社に入って会計のことを言われても最初は戸惑うよね。だけど、それはある程度慣れたらできるようになる。極端な話、1年ほどすれば大抵のことがわかるようになります。そうしたら、1年後以降にその人にとって何が本当に役立つのかが問題です。会計の仕方や何か物事の処理の仕方など事務的、技術的なものは1年くらいしたら大抵理解できる。それよりも大切なのは、どう生きるかを考えること。会社は、人間関係や他の会社との関係といったより広い視野の中で動く。広い視野に対してどういう生き方や行動ができるかということは、どんな教養を持っているかどうかによって差ができます。だから本当に役に立つのは一見「役に立たない」ものなんです。即戦力で役に立つものは1年くらいでできるようになります。それを今からする必要はないわけです。今は人間関係や文化や色々なことを学び、人生や人間について考えることが、会社に入って年数が経つと本当の意味でもっと役に立つ。それが今はわからないですよね。英会話一つ例に取ってみても、英会話だけしてても英語の力はつかないんですよ。本当は英語の文法とか英文の解釈をしっかりと学ばねばならない。例えば、英会話ができるAという人と、英会話はできないけど英文を読む力を持っているBという人がいたとします。二人が英語を使う会社に入ると、初めの一年間くらいはBが負ける。しかし、だんだん英会話に慣れてくると、次は英会話の内容が問題になってくる。内容を見てみると、英会話だけできるAにはあまり内容がない。しかし、いろんな文章を読んできたBは会話力を身につけるとグーンと伸びてくる。
 すぐに役立つことを考えているのは英会話だけ考えているようなものです。そうではなくて英文法や英文の解釈を勉強してきた人は、はじめは「英会話の役に立たない」と言われるかもしれないけど、会話なんて1年くらいすればできるようになる。日常的な会話力よりも大事なのは「基礎力」や「潜在力」です。「基礎力」や「潜在力」を身につける時間が大学のなかにあるんです。文学部にはそういう意味がある。だから確かに即戦力ではない。でもすぐに役立つとされることは、会社に入って1年ほどすればできるようになる。だから最近の会社は文学部の学生をよく採用するようになってきた。文学部の学生は役に立たないことをやっていると思われていたから、以前は相手にしなかった。だけど、長い目で見たら文学部の学生は人生や社会について色々考えていたりして、価値があることがわかってきた。会社の中で多様な人間が必要なこともわかってきた。だからむしろ、一見「役に立たない」ことを勉強した学生は却って「意味を持っている」わけです。文学部の学生はもっと自信を持ったらいいんですよ。


 すぐに役立つとか役立たないというそういったレベルの話は、あまりにも視野が狭く目先のことしか見ていない。もっと長期的な視野で見なければなりません。何に本当の価値があるのかが大切です。金儲けや効率、或いは合理的であるといったことだけを中心にするけれど、それとは異なる価値のあるものが人生にはいっぱいある。文学部では、一見世の中の価値に合わないようなものを教えてる或いは学んでいるように思われるけれど、むしろそれに意味があるんです。中学生でも高校生でも自分の習っていることに対して「何の意味があるんだ」という子がたくさんいますよね。そういう子は長い目で物事を見ていない。目先のことだけしか考えていない。でも本当はそうじゃない。広い意味での教養が大事なんです。年をとるとそれがわかってくる。世の中は一見無駄に見えることや役に立たないように思えることが、長い目で見れば、実は役に立つ。一番価値があるものなのです。

––––それに気がついていて文学部を選んだ人は先見の明があるということになりますね。

 そうなんですね。文学部は法・経・商みたいなどちらかといえば即戦力的なものを目指す学部とは違ったもっと深く広いものを勉強できる学部だと思いますよ。
 この4年間はとても貴重な時間です。大学時代は恵まれているということに感謝しないといけません。高校で就職する人もいるからね。長い目で見て大事なことをやった方がいい。資格試験を取りたい人も多いでしょうが、それはまさに即戦力のためのものですよね。会社に入ったらどちらにせよ必要な資格を取らなければならない。だから会社に入ってからではできないことを今の大学生活の中でしておくことが大事ですね。

文化史学について
 文化史学というのは、言葉が問題なんだけれど、文化史学というとどうしても文化の歴史と考えられてしまう。けれど、文化史学とは「人間すべてに関係する歴史学」だと考えた方がいい。文化そのものがそうでしょう?

––––雑誌の『文化史学』を読みました。文化=人間の営みや行動によって文化財もつくるし、経済もつくるし、政治もつくるんですよね。

 そうですね。だから広い意味で文化史学を捉えた方がいい。だから、最も歴史らしいものが文化史なんですよ。狭い意味での文化ではなく、広い意味で人間の活動すべてに関わるものとしての文化です。同志社の文化史学科は創立から70年くらいで、戦後間もない頃に創られました。その頃はマルクス主義的、唯物史観的な歴史観が強かった。そういう歴史観はどうしても経済面や政治面から歴史を見るところがあって歴史の見方が狭かった。そうではなくてもっと広い面があるんだということを文化史学は言ってきたんですよね。よその歴史学科はどちらかといえば少し旧式の歴史––––政治史とかマルクス主義的経済史の視点が多かったり––––に囚われているところもありました。同志社の文化史学科は、政治史や経済史からいえば歴史じゃないと思われるものも歴史の対象にしてきました。もっと広く歴史を見ているんです。今は他大学の歴史学も全体的に文化史学に近づいてきました。

––––文化史学は、それまでの歴史学と比べると、かなり限定的な事象に目を向けることがありますよね。その後に全体的な歴史に位置付けて、そしてまた細かいところを見る。文化史学はこのように繰り返す作業が必要なんですか?

 そうです。歴史には二つの眼が必要なんです。それはよく言われることですが「鳥の眼」と「虫の眼」です。「鳥の眼」は上から見ることで、「虫の眼」は小さいところを見るということです。「虫の眼」だけ観ていたら全体的なことがわからない。時には「鳥の眼」で大きく見ることも必要です。もう一ついえば、「木を見て森を見ず」という諺があります。木を見るのも大事だけど、木だけじゃない。木が生えている周囲の雰囲気や姿をも見なければいけない。二つの眼が必要です。歴史は片方だけではダメなんです。「専門化する」というのは如何にも「虫の眼」だけで見ているように思うかもしれないけれど、そうではありません。同時に「鳥の眼」で森や山を見る眼も持つ必要がある。そのために僕は授業で色んなことを教えている。広い面が必要なんです。
 歴史は過去を研究する学問なのに研究者は現在に生きている。すると、なぜ過去を扱うのかという問題が生じる。言い換えれば、過去を研究することで現在の自分の生き方が問われることになる。だから、現在を意識しないと歴史は研究できない。ただ単に過去だけに関心があるなんてことはあり得ない。現在の自分がなぜその過去に関心を持つのかが問題です。自分の現在の事柄に非常に強く係わってくるんです。自分自身の生き方が常に問われている。歴史を教えたり研究したりすることは、自分の人生観すべてに係わってくる。歴史はある事柄に対してどう見るかでしょ。過去にあった「事実」、何が事実と言えるかどうかは難しい問題だけど、それをどう解釈するかなんですよ。どう解釈するかはこちらの人生観にかかってくるんです。歴史を研究していたらいつも自分の人生観に跳ね返ってくるんです。

––––それでもできるだけ「客観的」に捉えないといけないんですよね?

 そこが難しい問題だけれど、「客観的」という言葉が難しい。かといって独断的にやっていいわけではない。ある程度論理を通しても、解釈する時には各人の主観が入ってしまいます。だから歴史において「客観性」を求めるけれど、本当の意味での客観性は求められない。必ず主観や人生観、世界観が含まれてしまいます。歴史研究は大げさに言えば自分の人生を常に考えているようなもの。そこにむしろ面白さがある。歴史はいつも歴史の対象と自分との対話のようなもので、いろいろなことを自問しているわけですよ。現在の自分を忘れては歴史研究はできない。現代の時代もそのようにして考えているんです。だからその意味で、歴史は自分の生きている現代、現在を無視した研究はできないんです。文化史は現代のことにも関心をもつ学問だと思います。

––––本日はありがとうございました。


井上雅夫教授の研究者データベースのURLはこちら(https://kenkyudb.doshisha.ac.jp/rd/html/japanese/researchersHtml/175010/175010_Researcher.html#item_SBT_15)
                                                               (文化史学科:中村 輝)
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