今回インタビューしたのは2004年に英文学科をご卒業され、現在、広告会社の博報堂に勤めていらっしゃる小泉基良さんです。ご結婚されており、娘さん(長女1才)と今年(2008年)の8月に第2子が誕生予定だそうです。
学生時代や現在の仕事についてお聞きしました。みなさんの生活に活かせるヒントがたくさん詰まっています。ぜひ読んで見てください。
Q.01 同志社大学文学部英文学科を志望された理由は何ですか。
- A.
- 英語が好きっていうのと、中学校のときから学校の先生、特に英語の先生になりたいって思っていたから。同志社を選んだのは同志社大学が全国的にみても英文学科のレベルが高いと聞いてたからかな。出身高校は同志社香里高校で、法学部への進学が一番多かったよ。僕は周りに流されるのが嫌いで、推薦人数の少ない英文学科に進学したのは、周りへの反発心もあったのかもしれない。
Q. —英文学科は学生の殆どが女性ですが、その点で何か困ったことはありませんでしたか?
- A.
- 実際に英文科に入ってみると必須クラスに2、3人しか男子はいない。男友達は他の学部よりはできにくかったし、女の子のグループと一緒にいつも行動するのも避けたかったので、独りで行動していた。その方が、個人的に小回りも効いて楽だったので。いずれにしても、中学高校と男子校だったから、大学での共学は久しぶりで、女性が多いのは新鮮な感じがして面白かった。いまだに仲のいい子たちは、結婚式に呼んだり、呼ばれたり、という感じで連絡を取り合ってるよ。
Q.02 在学中に受講した講義の中で、印象に残っている授業、先生を教えてください。
- A.
- 哲学の汐田 充先生。同志社大学の、田村正和(笑)。「哲学」という一般教養の授業をとっていたのだけど、大教室の授業なのに、学生は真剣に耳を傾けていて私語も一切なし。その先生がおっしゃるには、「ここは一般教養という名の団体バス。私はその案内人にすぎません。乗るのも降りるのも自分次第。乗ったからには、周りの迷惑になることはしない。そして、自分自身で面白いと思えるモノを探してください。」って。サルトル等難しい哲学というジャンルを、とてもわかりやすく、面白く教えてくれたな。
他には、ニュースポーツの高橋仁美先生。この授業は4年間ずっと参加していたな。3、4回生のときは登録せずに参加していたぐらい。キックベースや、アルティメットフリスビー、ラクロス、バンブーダンス、授業ではいろいろな種目に取り組んだ。そして印象深いのが試験。5分間の筆記試験があって、問題はたった一つ、「この授業で知りあった友達の名前を出来るだけ多く書きなさい」というもの。これは高橋先生が、授業で「積極性」と「チームワーク」をとても重視していたからで、なかなか楽しかったよ。
Q. —在学中に「ジョイント・セミナー比較文化論」という授業を受けておられましたが、それはどのようなものでしたか?(注1)
- A.
- AKP(注2)で交換留学してきた大学生と一緒に授業を受けるというもの。参加する為には、面接試験があった。授業は英語中心で講義形式としては海外のゼミに近いかな。チームでディスカッションをしたり、課題として与えられた英語の読み物を読んだりして、意見を交換し合ったよ。この講義には、学部に関係なくいろいろな大学生が集まってきて、モチベーションの高い優秀な人や英語を話すのは得意ではないが、チャレンジ精神溢れた同志社の学生たちと交流できたのが面白かった。留学生にしても、アニメから日本に興味を持って留学してきていたりと多様。そのあたりは面接でバランスよく取っているという感じはしたな。それで4回生の最後にチームで分かれて発表をしたよ。うちのチームはアメリカ人の女性2人、日本人女性1人の4人チームで、テーマは「女子高生の制服について」。四条で50人くらいの女子高生にインタビューして面白かったな。自分たちでフィールドワークを行って、その調査結果を講義の最後に発表するんだ。制服、っていうテーマを選んだのは、全チーム共通のお題が、「教育(Education)」だったから。日本の女子高生の制服は、海外の人達から見ると、とても特別なものとして映るらしい。セーラー服は、もともと思春期の女子から“女性らしさ”を払拭するため、男らしさの象徴としての「海兵服」を着せたことが始まり。それが今では、いちファッションとして認識されているだけでなく、コスプレとかロリータのイメージがあって、若者のサブカルチャーにもなっている。そういったセーラー服のイメージの変化というものも、海外の視点からみると興味深く映るみたいだ。
(注1)大学発行誌『One Purpose』の136号の記事に掲載されている
(注2)Associated Kyoto Programの略
Q.03 学生時代のアルバイトはどのようなものをしていましたか。
- A.
- 大学4年間続けていたのは家庭教師。他にもデパートの販売促進部のイベント実習生や、短期で国勢調査の調査員、それに葵祭や時代祭のアルバイトなんかもやっていたな。家庭教師の一番の思い出は、小学校6年生の夏休み前に突然、私立中学を受験すると言い出した女の子を担当することになったこと。教え始めた最初の1ヶ月は勉強が出来なくて、その子は何度も泣き出してしまったのだけど、見事志望校に合格することが出来たんだ。彼女が中学生になったあとには、ギターやダンスの発表会にも観にいったことがあったな。
デパートのバイトは、社員さんが企画した販売促進のイベントのお手伝いをするというものだった。例えば母の日に1,000円以上買ってくれたお客様に似顔絵を描いて差し上げるとか、仮面ライダーショウでショッカーに連れ去られるアシスタント役とかしていたよ。
Q.04 現在のお仕事に就こうと思ったきっかけは何ですか。
- A.
- 3回生の始めのころは、就職活動もしたくなかったし、スーツ着て満員電車で会社に通うサラリーマンになりたいと思わなかった。もともとは教師になりたいって気持ちがあったけど、大学3回生の夏休みに自転車でお遍路さんの四国八十八箇所をめぐって考えが変わったね。毎日、日の出とともに自転車をこいで、日が沈めば就寝するっていう自然とともに生活することで、自分の気持ちを素直に感じるようになった。それは、目の前のことから逃げ出すんじゃなくて、社会の荒波に揉まれなきゃいけないってこと。一回、実社会に出てから、教師になろうと考えたんだ。自分は文学部で、世の中のこと、会社のことも何も知らなかった。よく驚かれるけど、博報堂っていう会社の名前も知らなかった。だから就職活動を始めた最初は、業種を絞らずに幅広く会社説明会に出かけたな。そのなかで興味を持ったのが商社だった。でも結局、内定をもらえたのが博報堂。広告業界はこの一社しか受けてないよ。教師になりたいっていう気持ちがあったから、「たくさんの人たちにメッセージを届ける仕事」っていうのは嫌いじゃない、って思ったからかな。
広告業界で働くには、どれだけアイデアを出せるか、普段の生活や会話の中にどれだけの“気づき”を持てるかが一番大事。メーカーの様に具体的な商品を扱っているわけじゃないし、物を作る会社ではないしね。アイデアを出す為には、頭の中にいろいろな情報が入っていなければいけない。様々な情報がごちゃごちゃと入り混じった状態から、何か新しいものが生まれるんだと思う。僕が社会人になって参考になったのは『アイデアの作り方』(注3)という本。うちの会社で、制作、マーケティング、プロモーション、PRなどの幅広い領域を手掛ける人が書いた本なのだけど、その方法がおもしろいんだ。
-
- (注3)ジェームス・W・ヤング、今井茂雄 訳:『アイデアの作り方』、阪急コミュニケーションズ(1988)
Q.05 現在の仕事内容を教えてください。
- A.
- 博報堂では営業の仕事をしている。現在は飲料メーカーを担当。仕事内容とは、簡単にいえば、「プロデューサー」。つまり、社内にいる制作クリエーターや、マーケティングの担当者、それにプロモーションやキャッチコピー、デザインを考える人たちの意見を一つにまとめて、クライアントに対してテレビCMから、店頭に張り出すポスター、そしてパッケージのデザインまで提案していくんだ。アイデアはこの場合、「紙モノ」であり、「コトバ」であり、時には「笑い」であるときもある。
もちろん競合他社とのコンペもあって、それに勝ち抜いていかなくちゃいけない。自分の会社のアイデアを買ってもらうことが、広告会社にとって仕事の「受注」となるんだ。この競合コンペに勝った時が仕事の一番のやりがいかな。マーケティングで時代の流れ、市場を読みながら、半年間くらいかけて商品の開発をクライアントと一緒になって手がけてく。クライアントに問題点があればパートナーとして共に解決するし、時には機密情報を共有することもある、非常に重要な役目。広告は物(クライアントの財産・アイデア)を売るための仕事だからね。どんなに広告がおもしろくても、商品を売ることが一番の目標。けれど、たとえ商品が売れなかったとしても、その広告によってクライアントの会社のイメージがアップしたり、社員のやる気があがったりすることも目標にすることもあるんだ。
Q. —仕事をして大変な時と、やりがいを感じる時はどんなときですか。
- A.
- 仕事で大変なのは、与えられる仕事量が半端でなく多いこと。どこからどう手をつけていいかわからないときもあるし、わからないまま手探りで仕事を進めるときもある。でもそうして自分ひとりが迷うと、クライアントや自分の後ろにいる会社のスタッフ全員が迷うことになるから、ひとりで抱え込まないことが重要かな。打合せをしていて、帰宅が深夜になることも少なくないよ。
反対にやりがいを感じるのは、競合コンペで自分たちの提案を採用してもらえた時。あとは、社内のスタッフがとても優秀な人ばかりで、一叩けば十返ってくる。そういう優秀な人と一緒に働いているのは面白い。
Q.06 学生時代で学んだことで、社会に出てから役に立ったことはありますか。
- A.
- ないね!(即答・笑)役に立つことっていうのが、具体的に弁護士とか会計士等、何か資格を持った職業だったら、直結するのかもしれないけど…。もし「ある」とすれば、それは学生時代に経験したこと全部じゃないかな。読んだ本、感動して泣いた映画、旅行先の思い出とかね。それに友達!友達の影響は大きいな。人生で一番大事なものかもしれない。友達からの影響でいまの自分が成り立っているのかもしれないと思うほど。いまの自分が成り立っているのは、そういったものすべてかな。だとしたら、学生時代に学んだすべてのことは社会に出てから役に立っているとも言えるかな。
Q. —学生時代にやっておけばよかったことはありますか?
- A.
- 恋愛(これまた即答・苦笑)。恋愛はもっといっぱいしておけばよかったかな。あとは読書。学生時代、読書は本を目の前にすると眠くなってしかたなくて。それと「自分への投資」ってやつかな。自分のためにお金を使うこと。何でもいい、少しでもいい、ギターでも、旅行でも、留学でも、少しでも自分を上へ、前へ押し出してくれるものに、お金を厭わずやってみるのは、いい経験になるし、自分の糧になると思う。
Q.07 結婚して、家庭を持ったことで何か変化はありましたか。
- A.
- 子どものことに興味を持つようになったかな。世の中の子ども全部かわいく見えてくるし、妊婦さんにもすぐに気付くようになった。学生時代はマニアックな映画ばっかり見ていたんだけど、最近は、殺人ものや暗い映画は無理になった。逆に興味の無かった、ラブストーリーや、ハッピーエンドで終わる映画しか見られなくなったな。けれど、「子ども中心」ってわけではないな。自分たちの好きなように生活しているよ。美術館とかも行くし、親がストレスを溜めているほうが子どもに悪いからね。
一番の変化は、何と言っても、「親」の存在の大きさに、感謝とか言葉では言い表せない気持ちでいっぱいだということです。ただ、それは直接伝えるのではなく、受け継いで次の世代に伝えて生きたいですね。
Q. —ご趣味はありますか?
- A.
- 学生時代は、自転車の旅、写真、京都のラーメン屋巡り、それと単館系映画館巡り。今は趣味と言えるものが特にないかな、一人の時間が無くなったしね。
Q.08 モットーや好きな言葉はありますか。
- A.
- 『初心忘れるべからず』。初心、っていうのは「自分が初めに感じたこと」。圓月先生が授業でおっしゃっていた、「人間は何かを犠牲にして、何かを選んでいる」ということと繋がる気がする。人って、一見、理由もなく何か選んでいるようだけれど、感覚的にせよ、理性的にせよ、何かしらの理由で物事を選んでいる。その理由を忘れるなってこと。何かに行き詰まった時に、自分がそのものを選んだ最初の理由が、力になってくれる場合があるから。
あとは最近注目されている詩人の茨木のり子さんの詩で、「自分の感受性くらい自分で守れ」という言葉。他には「昼の光に、夜の闇の暗さがわかるものか」。あんまり目立つのは好きなタイプではないから、縁の下の力持ちってことで。
Q.09 これからの夢や挑戦したいことはありますか。
- A.
- 夢は、英語の教師になること。これは究極の夢。挑戦したいことは、バスケかな。高校生のときにバスケ部に入っていたんだけど、腰を痛めてしまって選手としてではなく、トレーナーとして在籍していたことがあって。社会人のバスケチームに入ってもう一度、バスケットボールに挑戦したいと思っている。
Q.10 在学生や、高校生に向けてメッセージをお願いします。