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Web学生記者日記

2008年度

09/03/23 今年度を振り返って

三月も後半を迎え、2008年度が終わろうとしています。私は昨春からキャンパスが今出川に移り、三回生として学生生活を過ごしました。大学に慣れてきたこともあって、学業・アルバイト・課外活動において、今年はバランス良く力を注げたなと思っています。

そんな中で、私はある先輩から教訓ともいえる言葉を教えてもらいました。

それは、「できる、できないじゃない。やるか、やらないかだ」です。

その先輩はチャレンジ精神旺盛で且つ責任感は人一倍、というような尊敬すべき方です。だから私はこの言葉がかなり自分に影響したと感じます。人それぞれ本当に自分がやりたいことってあると思います。私も同じです。そして、なかなか挑戦できない、踏み出せないことが多いです。でも、まず先にできるできないを考えるのではなく、自分はやるのかやらないのかってことが重要である。私はこの言葉から学びました。もちろん自分の力量を見極めるのも大切ですが。

私の学生生活は残すところ約1年。勉強も遊びも、まだまだやりたいことがたくさんあります。私はそれらに対して、やっておけば良かったと後悔することのないように、前向きに取り組んでいきたいです。
今出川キャンパスの梅の花

今出川キャンパスの梅の花

森川 恵

09/03/03 学生生活で感じたこと

日々の学生生活で感じたこと、それは大学には色んな人がいて皆個性的であること。

すごく思うのは一人一人が違うということです。大学生活を送る上で、その違いを認め合えるか、受け入れられるかが大事だと思います。自分の知らなかった世界が広がっていくかどうかは全部自分がどれだけ心を開いているかによると思います。

どちらかというと、皆に合わせようとしている自分がいました。でも大学に入ってからは、一人一人は違うし服装も考え方も授業の選択も生活スタイルも異なるし、その中から自分と似ている人を探し出すのは困難です。皆それぞれ自分のポリシーを持って生きていてそれを尊重しなければなりません。そして他人の考え方を尊重することは、自分の生き方、価値観を作り出すことにもなります。

それまでは全く異なる生き方をしてきた人とは特に出会ったことがありませんでした。勿論きっと考え方は少しずつ異なっていただろうけれど、なんとなく同じ、という人と常に一緒だった気がします。しかし、世界には色んな人がいて、皆それぞれ生きているのだって思いました。その事に気付いた時初めて自分の中で他人の個性を認めることができました。一人一人は違って、異なって、バラバラであるのだけど、話してみたら友達になれるし、仲良くなれるし、分かり合えるし、助け合えることができる。そしてそれが一人の人間であり、友達であり、仲間でありの関係であるのだと気付きました。

それならば私も自分らしく生きたいし、頭で考えるのではなくて実際に個性を尊重したい。そしてそれは今まで話したことがない、話しにくそうと思っていた人が実は最高の友人となれ、新しい世界の扉を開いてくれる、そんなことをこの大学生活2年間で気付きました。何も世界を旅しなくてもこんな身近に、こんなに豊かな新しい世界を持っている人がいたんだっていう事に衝撃を受けました。そのためには絶対自分から心を開くこと、何の先入観、偏見も持たないことが大切だと思いました。私は大学に入学してから、自分と全く異なった人と出会ったことでたくさん世界が広がり、自分の中で多様な価値観を尊重できたという自分に驚き、こんなに色々な人がいる豊かな世界が愛しく思えました。だから大学で学んだこと、それは自分から心を開くこと、そうすれば新しい世界が広がること、そして他人を尊重すること、それが新しい自分へ繋がると思いました。

人間誰しも通じ合えるものがあるし、興味を抱くところや笑う所も同じだから、その時仲良くなりたい、もっと友人になりたい、という自分から心を開くという気持ちが一番重要だと思いました。

後藤 優里

08/11/14 糺ノ森

下鴨神社の社叢・糺ノ森。
古代から続くこの森は、変わりゆく京都のまち中に、悠然と存在している。
ここでは毎年伝統行事の葵祭りや御手洗祭りが行われており、多くの人で賑わっている。

にぎやかな行事を楽しむのも良いけれど、私はゆったりと森林浴をするのがお気に入りだ。

早朝、森はひと気が少なく静寂な雰囲気に包まれている。木々から生成された新鮮な空気が、しっとりとそしてひんやりと漂い、ときどきそよぐ風が優しく頬を打つ。そっと耳をすませると葉と葉が揺れうごく音、風に吹かれて小枝の落ちる音が聞こえる。そして時々、気まぐれに鳴くトリの声が重なる。立ち止まってこの空間に浸っていると、あまりの心地よさにふと時間や現実を忘れてしまう。

ここは自分にとって、長年の通学路であり散歩道であり、憩いの場。わざわざ回り道したくなる、大切な場所だ。
糺ノ森
森川 恵

08/10/23 交換留学のはじまり

7月中旬にスイスでの語学研修を無事終え、一瞬帰国→ソウルでの青年フォーラム→再び一瞬帰国→シンガポールを経由してワルシャワへ行き二週間難民センターでボランティア→パリ、ヘルシンキを経由して一時帰国、三週間ビザ更新のため日本に滞在、平日は東京でインターンシップ、週末は実家と、たまに京都にも足をのばす・・・というどたばたした一ヵ月半を送り、9月7日に第二の留学先であるパリに来ました。到着して三日目、さっそく、履修登録でフランスらしい「洗礼」を受けました。

9月10日は運命の履修登録の日。履修したい授業があってわざわざパリまで勉強しに来たので、履修登録はミスすることができません。しかし、こちらの履修登録は基本的に“First come, first serve”つまり、早い者勝ち。オンラインの履修登録で、取りたい授業をいかに早くクリックできるかに懸かっています。朝の10時から履修登録開始、何か問題が起これば大学の担当者がすぐに対応してくれるとのことで、私も朝9時半にはパソコンを抱えて学校へ。登録開始10分前には学校中のコンセントが埋まり、みんな緊張気味にスタンバイ。そして、10時になると、みんなものすごい勢いでクリック開始!私も、メイン科目となる英語の授業とフランス語の授業を二つ登録。
しかし5分後・・・

大音量のアラームがキャンパスに鳴り響きます。“Allez! Allez!(英語でいう、Go go!)”と大学職員が叫びだす。火事?いや、そんなはずはない・・・だってこの学校のカフェテリアではサンドイッチしか売っていません。きっと誰かが、キャンパス内で煙草を吸ってしまったなどという理由です。でも、アラームは容赦なく鳴り続けます。大学職員の指示に従って、みんなパソコンを担いでキャンパスの外へ。その間に、ワイヤレスが運よく繋がった人は履修登録終了、私みたいに繋がらなかった人は、取りたかった選択授業全て空席なし・・・

その後もクリックし続けたけれど、結局選択授業3科目はひとつも登録できず。これじゃ、一年で必要な単位に全く足りません。助けてくれるはずのオフィスに何度電話しても、「クリックし続けなさい。午後になったら空席ができるから」と、それ以上交渉の余地なし。結局、その日はそれ以上登録できませんでした。

とにかく要領が悪く、理不尽なことが多かったパリでの一週目。「履修登録では毎年混乱が起きるから」とフランス人の友人が笑いながら言っていました。フランスで生きていくには、気が長くて、タフでなくてはいけないと改めて実感しました。結局、その後かなり時間がかかりましたが、無事履修登録終了。一番取りたかった授業が登録できなかったり諦めなければいけないこともたくさんあったりと悔しい思いもしましたが、来学期もあるので、あまり落ち込まず前向きに考えようと思います。

9月の三週間は留学生向けのオリエンテーション期間で、フランス語の語学の授業を毎日受け、メソドロジーのクラスでフランス式のプレゼンテーションの仕方やレポートの書き方など、これからこの学校で学んでいくために必要なスキルを学びました。プレゼンの練習では、生まれて初めてフランス語でプレゼンテーションをしました。初めは「フランス語でプレゼンだなんて、絶対そんなことまだできない!」と思いましたが、台本をかなり丁寧に作り、パートナーと一緒に休日も練習したため、問題なく終えることが出来ました。このプレゼンテーションの準備のために、たくさんのフランス語の文献を読み必要な情報を組み合わせ、辞書を何度も引いたため、短期間でかなりフランス語が上達した気がします。もちろん、まだまだ本当に低いレベルではありますが。語学力の向上には訓練が一番大切で、今の環境はフランス語を上達させるベストな環境だと改めて実感しました。11月以降はほぼ毎週、さまざまな授業で英語またはフランス語でプレゼンテーションを担当することになります。それに加え、毎日の授業、授業準備のための大量のリーディングの課題が課され、語学力(特にフランス語)がまだ不十分な私は復習も欠かせません。フランス語の授業には録音機を持ち込み、家に帰ってから聞き直さなければなりません(デジカメの録音機能を使っている私を見て、「やっぱり日本のテクノロジーはすごい!」とフランス人に褒められ(?)ました)。

今学期だけで31単位と、かなりたくさんの授業を登録しているので正直大変ですが、どの授業も興味深いので最後まで諦めずに頑張ろうと思います。ずっと来たかった、パリ政治学院で学べることを誇りに思って。自分を支えてくれる、家族、大学、先生、友人、奨学財団、すべての人に感謝して、一日一日を大切に過ごそうと思います。

古山 彰子

08/09/17 「難民」〜一人の人として〜

2008年7月28日午後6時。ワルシャワ近郊の難民センターでの初仕事を終え、ボランティア仲間と帰宅しようとしていた時、チェチェンの伝統的なワンピースを身にまとったひとりのおばあさんがこちらに近づいてきた。まっすぐな瞳で、私の右手をしっかりと握り締めて、流暢なロシア語で私たちに何か語りかけている。隣にいた、ロシア語が得意なブルガリア人の友人に通訳をしてもらった。

「ここにきてくれてありがとう。わたしたちの子どもたちの面倒を見てくれて本当にありがとう。心から感謝します。」

私が彼女の言った言葉を理解したと分かると、彼女は握り締めていた私の右手にキスをし、来た方向に戻って行った。その後一度も見ることのなかった彼女の写真は一枚もないけれど、あの優しい笑顔を今でも鮮明に覚えている。これが、私のポーランドでのボランティア生活のはじまりだった。

ポーランドの首都ワルシャワ近郊の難民センターでボランティアをしてきた。よく、新聞や地域研究の授業で耳にする”難民”。たびたび耳にするから、聞き慣れてしまったくらいだけれど、難民とは人である。難民、難しい状況で生きている民。聞き慣れてしまっていいはずがない。これから一年間、パリで国際関係を勉強する前に、難民や戦争と言う言葉を耳にしすぎて麻痺を起こし、そういう現状を当たり前と思うようになってしまう前に、生身の人間である彼らと接したくて今回ポーランドまで行ってきた。

難民センターというけれど、そこにいた人々は"まだ”難民ではない。祖国であるチェチェンから逃れてきて、ポーランドで難民としてこれから生活をしたくて、難民としてのステイタスをもらえるのを待っている人々。短ければ先週来たばかり、長い人は、もう四年以上、そこで待ち、暮らしている。

ボランティアの内容は、センターの子どもの余暇活動の企画。朝から晩まで、子どもたちと一緒に過ごした。英語の授業もしたけれど、母国語であるチェチェン語に加え、政治的理由でロシア語、これから暮らしていくために既にポーランド語も学んでいる彼らは、新しい言語の飲み込みが非常に早い。教えたら教えただけ伸びて、こちらも嬉しくなった。

「Шoko(彰子)はボランティアのみんなと英語で話しているんでしょう?一緒に話したいから、英語を教えて」と言ってきた13歳の男の子が忘れられない。たった二週間で、英語を話せるようになることが困難なのはわかっていたけれど、彼の期待に答えたくて、毎日必死に英語を教えた。二週間も一緒にいると、子どもたちは私たちに慣れて悪戯をしてくることもあった。悪戯をされて怒っている私の気持ちを察して、覚えたての英語で”I’m sorry”と声をかけてくれて、仲直りすることが出来た。普段は、ロシア語の出来るボランティア仲間に通訳してもらって会話していたが、この時初めて覚えたての英語で意思表示をしてくれて、気持ちが通じ合えたのが嬉しかった。他の子どもたちも、毎日”Pani pani(おねえちゃんおねえちゃん)と言って私たちを取り囲み、単語カードの奪い合いが起きてしまうほどだった。「順番に、順番に」とその場では制していたけれど、あとから考えたら、彼らが必死に学びたいと思っているからこそあのような奪い合いが起きたのだと分かった。今後、あんなに目をきらきらと光らせて、単語カードに書かれている英単語を写していた彼らの教育機会が奪われることがないことを心から願っている。

大人の人とも話をする機会があった。チェチェンから三年前に逃げてきたという30代の男性。「ポーランドの難民支援には決して満足していないけれど、ここでは夜何も心配せずに眠れるから文句はない。チェチェンでは、夜中に黒いマスクを被った男たちが家に入ってきて、一家の主を拉致して身代金を要求するなんていう事件がよく起きるから。家族の消息が未だに分からない知り合いも結構いる。」などという話をしていた。この同じ地球上にそんな場所が存在することが悲しい。彼の経験してきた悲しい出来事をたくさん聞いた。彼は、日本が素晴らしい国だという。どうして?と私が聞くと、戦争がないから、と一言。その後、素晴らしい文化があって、人もすごく礼儀正しくて・・・と付け加えていたが、その最初の一言から、彼がどれほど戦争のない平和な、夜安心して眠ることの出来る場所に住むことを願っているのか、ひしひしと伝わってきた。

子どもはいつも、身勝手な大人たちの犠牲になってしまう。去年の夏はベルギーでのボランティアに参加し、家庭の事情で施設生活を余儀なくされている子どもたちに出会い、今年はポーランドの難民センターで、政治的理由で大きな被害をこうむっている子どもたちに出会った。

私は基本的に、世界はすごく狭いと思っている。地球の裏側だって、飛行機を乗り継いだら24時間以内で行けるし、外国の友人とお別れした後もまた会えると信じているし、実際今まで、ヨーロッパ、東アジアと、かなりの回数で現地に住む友人のもとを訪れ、再会してきた。しかし、今回出会った子どもたちとはもう会えることはない。難民センターという場所で出会った子どもたちは、難民としてのステイタスがもらえ次第、センターを離れる。実際、ワークキャンプ中の二週間でもかなりの数の家族の出入りがあった。もし私がまたあのセンターを訪れて、今回のキャンプで知り合うことの出来た子どもたちがまだそこにいたら、再会できて嬉しくてもそれ以上悲しいことはない。ステイタスを待ち望んで、それでもまだ叶わないのだから。また会えると信じている人との別れは笑顔でできるけれど、今回のお別れは本当に辛かった。

もう会えないけれど、地球上にこれだけの人がいる中で、何かの縁があって同じ時間を笑顔で共有することの出来た私にとってかけがえのない人たち。本当に、たくさんのことを学ばせていただいた。今生きている場所は違うけれど、今回の経験を何らかの形で社会に還元し、世界平和に貢献することが、私にできる一番の恩返しだと信じている。どんな形でしていくかは、今後しっかりと考えていこうと思う。

古山 彰子

08/09/08 韓国での青年フォーラムに参加して

シンガポールを経由して、スイスから帰国したのが7月中旬。その二日後から1週間、韓国で行われたThe 19th International Youth Forumという、ヨーロッパとアジアの青年が集まるフォーラムに参加していました。帰国した翌日には事前研修で東京へ、二日後にまた出国というスケジュールでした。

名称を見てもわかるとおり、今年で19周年のなかなか長い歴史のあるプログラム。今年は、私の所属するIYEOから日本からの参加者を選出することになり、私はIYEOの推薦をいただき参加できました。

開催期間は当初の予定ではスイスにまだいるはずだったし、募集がかかったとき少し迷いましたが、これから欧州連合と東アジア共同体に関して勉強する身として、ヨーロッパとアジアの青年と交流して、対極とも思われるこの二つの地域に暮らす人の違いや似ているところを見つけたいと思い、参加しました。

ディスカッション、講義、韓国文化体験、各国文化紹介、レクリエーションなどなど毎日ぎっしりスケジュールが詰まっていて、本当に充実した1週間でした。私は二年生の時、内閣府国際青年育成交流事業でドミニカ共和国に派遣されましたが、その際は3週間のプログラムで、途中で体を壊しては大変なので毎日かなり規則正しく生活していました。しかし、1週間のプログラムなら話は別です。去年、タイ政府主催の東アジアユースリーダーシップフォーラムに参加した時もそうでしたが、他の参加者と仲良くなるために毎日平均睡眠時間3時間くらいで過ごしました。夜の非公式な集まりでは、韓国人の飲みっぷりに本当に驚き、また、韓国で有名なソジュも初めて飲みました。プログラム三日目に38度の熱を出して一瞬倒れそうになりましたが、倒れている場合ではないと思い、少しだけ休んで乗り切りました。最終日には、風邪と話しすぎで喉が痛く、声が出ませんでしたが、喉を嗄らすほど話し合った彼らとは、本当に素晴らしい友人となることが出来ました。あの喉の不調も、今となってはいい思い出です。

日本での事前研修の際、所属団体のIYEOの方に、「韓国人は準備もリハーサルもなく、「なにかやれ」と言われれば個人でもチームでも何かしら披露できる人たちです。言われていないからやらない、準備していないからできない、と言うのではなく、臨機応変に対応してください」とアドバイスを受けていましたが、今回行ってみて本当にそのとおりだと思いました。人前で堂々と歌ったり踊ったり、日本人にはなかなかできないことを当たり前のようにする彼らに感銘を受けました。テコンドウや合気道もとてもかっこいいです。私たちも日本人5人で、日本舞踊をしました。私は日本舞踊をするのは初めてで、3時間ほどの練習時間で人前で披露しなければいけないのはすごく勇気がいることでしたが、今できる100%を出し切って舞いました。他の国からの参加者に、すごくよかった!と言ってもらえて本当に嬉しかったです。

プログラム初日の夜に、タイのフォーラムで知り合った友人がホテルまで来てくれて再会し、帰国する日にも、別の友人にソウル国立大学を案内してもらいました。私はこの3月にもソウルに行ったので、釜山出身のその友人に「お姉ちゃん、釜山の友達よりよく会うよ」と言われました。日本と韓国は、本当に近いです。

私は高校でイギリスに留学した頃から、海外と言えばヨーロッパだったし、韓国人はどうせ日本人が嫌いなんだと、ネガティブなことばかり考えていました。でも、それは本当に貧しい考え方なのだと気付きました。隣国であるということは、領土問題やその他さまざまな問題を抱えるのは当たり前だし、それは日韓に限ったことではないと思います。今回知り合った韓国人は、日本語を話せる子がすごく多かったです。韓国人が日本にこれだけ関心を持ってくれているのだから、日本人ももっと韓国に興味を持つべきだと思いました。

韓国が、アジアが、ヨーロッパが、そして世界をもっと近く感じられるようになった、そんな1週間でした。

古山 彰子

08/09/08 スイス留学を終えて

私は今までたくさん、海外に行く機会に恵まれた。欧州、オセアニア、北米、中米、東アジア、東南アジア。訪れた国、25カ国。海外に行くこと自体はもうちっともめずらしくなくなってしまったし新鮮味もあまりないけれど、いつの海外滞在もそうであるように、今回の3ヶ月のスイス留学でもたくさんのことを学べました。

まずは、同じ"留学"でも、高校や大学など現地校に行くのと語学学校に通うのは全く別なんだと改めて実感。私は高校の頃イギリスに留学していましたが、周りが全員英語ネイティブのイギリス人でも、私は中学校から英語を始めたばかり。もちろん、彼らと肩を並べて、失敗したら毒を作ってしまうような難しい化学の実験のテストも受けたし(海草を燃やす実験は臭かったです…)、週末は家に引きこもって勉強したりもしましたが、彼らと比べてどこか自分に限界を感じていた部分があり、留学を終えた時点での自分の英語力の低さには嫌気がさしていて、帰国してしばらくは英語で話すことを封印してしまっていました。

語学学校というのは、全員その地で使われている言語のネイティブではないし、ある意味でみんな同じラインにいます。そんな中、フランス語が上手な友人にはいつも刺激を受けていました。学校自体には、経営体制や授業内容などに実はすごく不満があって、一時期は「こんなところにいてフランス語が伸びるわけがない」と感じて午後に授業を受けられる別の語学学校を本気で探したこともありました。でも、そう感じていたからこそ、不満に思ったことは我慢せずに口に出し、授業で先生の説明に納得できないときは"Je ne comprends pas(わからない!)"としつこいくらいに発言できるようになりました。今後1年間フランスで生き延びて行くために必要な術が得られたと思います。

これだけフランス語をぎゅっとまとめて学べたのも初めてで、まだまだ難しい表現はできないけれど、やっぱり3ヶ月でそれなりの成果はあったと信じています。ここで出会えた人々、スイスのさまざまな場所や隣国に友達と一緒に訪れたこと、日本でガイドした二組のツーリストさんとの再会、3ヶ月お世話になったマダムとの会話一つ一つ・・・すべてがこれからの私の糧になっていくと思います。スイスでの最後の夜は、お世話になったマダムに感謝の気持ちを込めて、晩御飯を作りました。

4月にチューリッヒに着いたとき、チューリッヒが私の話せないドイツ語圏ということもあり、「また海外に来た」と感じました。帰国1週間前、去年ベルギーでボランティアした後、西欧を旅したときに訪れた首都ベルンに行きました。スイスではじめて訪れた街。「ここに住んでみたい!」と感じた景色が見える橋に再び足を運んでみました。11ヶ月前そこにいたときは、まさか自分が翌年ここから1時間足らずのところでフランス語を学んでいるとは思わなかったし、二度と訪れることがないかもしれないと思っていた場所にいるのが、タイムスリップしたような不思議な感覚でした。

留学生活の終盤、ローザンヌにいるとき、私はもうそこが外国だとは感じませんでした。外の国と感じないのは、自分がスイスに来て、スイス人の一家庭にお世話になりながら、同じ言葉で、同じような服を着て、同じものを食べて生活できたから。自分がその世界に入って、同時にその世界を自分の中に少しだけ取り込むことが出来たからだと思います。

スイス留学を終えて帰国した後も、国内外をばたばたと移動する日々が続くけれど、どれも本当に楽しみです。一つ一つの行事、ひとりひとりとの出会いを大切にして、進んでいこうと思います。

古山 彰子

08/07/28 山田悦子さんの講演

小学校の頃、近所に知的障害を持つ女の子がいた。彼女は体育の時間になると、なぜかわからないが、授業には参加させてもらえず、ひとり教室で待つようになっていた。
中学校のとき、宿題を忘れると、黒板の前に並ばせられて、男の子は順番にほっぺを叩かれた。女の子には気が引けるのか先生は叩かなかった。ただ、同じ町内にいた知的障害の女の子は別な扱いを受けた。黒板の上には「自由・平等・博愛」の額が掲げられていた。「戦後民主主義のもと、今では考えられない教育を受けてきたんです。」講演者の山田悦子さんはそう語った。
NHKの番組で、知的障害児入所施設で働く人々を見て、心が動いた。「これだ」と思った。幼い頃、その目で見て感じた心のわだかまりを、養護施設で働くことで拭おうとしたのかもしれない。

人生の進路が大きく歪んだのは1974年のこと。山田さんが働く養護施設で園児二人が行方不明になり、遺体で発見された。警察は殺人事件と断定し、山田さんは容疑者として逮捕された。無罪判決を勝ち取るまで、実に25年の闘いの始まりだった。
 
先月、同志社大学の学際科目『マスメディアの現場』の講義に、冤罪被害者の山田悦子さんがゲストでいらっしゃった。ご自身の実体験をもとに、日本の司法制度の問題点や人権を侵害しつづける犯罪報道について、貴重なお話を聞かせていただいた。
警察の留置所で24時間いつでも行なわれる取り調べ。日々あがる証拠を否定する毎日がつづいた。身に覚えのない罪に対し、いつしか闘う強靭な気持ちが萎えていったという。法律や人権とは何なのだろうと思い始めたそうだ。
「日本国憲法に‘法の下の平等’があるだけでは基本的人権は尊重されません。なぜなら、日本国憲法の保障する司法のもとで、私は(無実の罪で)二度逮捕されたのです。」

来年から裁判員制度が始まる。裁判の迅速化のため、公判前整理手続も行なわれる。証拠の検証は原則一審のみであり、国民から選ばれる裁判員が参加するのは、まさしくこの一審である。一審の判決が全てを左右しかねない。無罪判決を勝ち取るのが今よりも難しくなるのではないかと山田さんは危惧している。また、罪が確定するまで犯罪者扱いをしてはならないという‘無罪推定の原則’を守っていないマスメディアにも厳しい目を向けている。
「司法手続や刑事裁判を見れば、その国の文化の質や思想レベルがわかります。」
死刑が加速するなどの日本の現況に、山田さんは司法の幼さを感じている。

裁判官は国家の一翼を担う立場でありながら、一方で人の子でもあり、当然立身出世を考えるものと山田さんは語る。無罪判決を出して冷遇され、晩年は地方回りをした裁判官もいると言う。良心と避けがたい保身の気持ちの狭間で苦しんでいるというのもまた事実らしい。裁判官という人の懊悩をも理解し、人を憎まない山田さんの寛容な心と、真に改善すべき制度やその問題点をえぐり出す鋭い眼差しが印象的だった。

俳優・木村拓哉さんが検事を演じるテレビドラマの中に、印象的な台詞がある。冤罪をつくり上げ、一人の人間を死に追いやった警察官に対して放った言葉から。
「俺達みたいな仕事ってな、人の命奪おうと思ったら簡単に奪えんだよ。あんたら警察も、俺ら検察も、そしてマスコミも、これっぽっちの保身の気持ちでな、ちょっと気を緩めただけで人を簡単に殺せんだよ。俺らはそういうことを忘れちゃいけないんじゃないすか。」

付け足すなら、そういう司法制度に与っている私たち国民一人一人も、そのことを決して忘れてはならないと思う。

寺西 洸二

08/07/04 野鳥図鑑

数年前の話になりますが、なじみの本屋でふと野鳥の図鑑をぱらぱらめくったことがありました。どういういきさつか憶えていませんが、いざ眺めてみると少年時代の興味が湧き上がってきて、なんだか夏の日の陽だまりに佇んでいるような気になりました。

ハクチョウの純白は、真っ青な空に映えるなあと思い、ライチョウの冬羽とそれに浮かぶ紅い肉冠の色合いは、雪に落ちた寒椿のような鮮やかさを感じた記憶があります。梢で息をひそめるフクロウの姿を見て、自分も深い森に抱かれてずっと夢の中でまどろんでいたいと心から思いました。

野鳥だけに、色とりどりで、その一種一種の色調を訪ねてページを繰っていると、スズメの項目に行き着きました。その解説文が印象深く、今でもひょいと頭の中を渡っていくので紹介します。

<人と暮らす鳥で、たとえば山地の集落から人がいなくなると姿を消してしまう。群れで暮らし、草の実などを食べる。繁殖期は昆虫類を食べる。人家の屋根のすき間などに球形の巣をつくる。>

学術的な分析に留まらず、どこか温かみがあり、生き物への情愛をこめた文章です。こんなにも対象物に迫った眼差しで文章が書けないものかと反省をせずにはいられません。最初の一文が、私は好きで、メモを取って手許に残してあります。

おばあさんの作った糊をなめて、舌を切られるスズメの昔話があります。古来、人の生活のとなりにはいつも小さな留鳥がいました。都会では環境が悪くなり、随分と数を減らしていることでしょう。それでも、夕暮れの合図はカラスの「カアカア」であるように、スズメの「チュンチュン」で朝がはじまる生活は、今も昔も変わりません。

人間が他の生き物と共生しているということに、今更ながら奇跡を感じます。少し近づいたくらいでも、ピョンピョンと跳ねて逃げてしまい、ハトなんぞと比べて人懐っこさはないものの、人がいないと自然と姿を消してしまうという可愛げも持ち合わせているのだから憎めません。

本年7月、北海道で洞爺湖サミットが開催されます。待ったなしの状況までになった環境問題が取り上げられる予定です。生活の場を失い、絶滅という黒い海におびえながら、刻一刻と溶ける氷の上で右往左往している生き物たちが、今たくさんいます。我々の周りから、例えばスズメが姿を見せなくなったとしたら、それはひょっとすると「次は人間の番だ」という合図なのではないでしょうか。野鳥図鑑の言葉が、胸に響いていつまでも尾をひきます。
<人と暮らす鳥で、たとえば山地の集落から人がいなくなると姿を消してしまう>

寺西 洸二

08/06/09 クラーク記念館に感激!!

今春、クラーク記念館が再び講義棟として使用されることになりました。1894年に開館したクラーク館。114年前の建物とは思えないほどモダーンなこのつくり。私の入学当初は工事をしていたため、写真でしか見たことがなかったクラーク記念館。3年越しの対面ということもあり感動も一入。幸いにも今春はここ、クラーク記念館で講義を受けることができ、114年という「歴史」の中で江戸の文学を勉強中です。

しかし、毎回思うのが「音」。廊下を人が歩く音、しゃべり声、さまざまな音がとてもよく響きます。天井が高いせいなのか、はたまたそういうつくりなのか…。休み時間はいいかもしれませんが、授業中はちょっとだけ困ります。

114年の歴史の中で、クラーク記念館で学んだ先人たちはいったい何を考えてきたのでしょうか。そして、これからのクラーク記念館の歴史の中に、「私」がいる。京田辺では新しい建物が新たな歴史を刻む中、今出川では受け継がれてきた歴史がある。

いろいろなものが、私たちの手には託されているのだろう、と感じました。

「クラーク記念館ミュージアム」のHPもご覧下さい。
クラーク記念館ミュージアム(オリジナルサイト)
クラーク記念館
鳥集 あすか

08/05/27 葵祭に行ってきました

今日は葵祭に行ってきました!
京都に来てはや3年。それなのに葵祭を見たのは初めて。せっかく京都にいるのだから、お祭りを満喫しなくては!と思っての見学。
御所出発で丁度出町柳を通るということで、1限の授業を終えてから出町柳に移動。いまだ見たことのない人の多さに(まさか今出川通りにこんなに人が集まるだなんて!)、田舎出身の私はちょっとくらくらしながらも何とか見学場所を陣取り、待機。
予定の時間を20分ほど送れて、先頭行列がやってきました。サンサンと日の照る中、参加者たちはさぞ暑かったことでしょう。日陰の私ですら暑かったのですから。
興奮する馬に、のそのそと歩む牛。交通規制の状態が半端だったせいか、自動車の往来が気になりました。
さて、行列も見せ場と思ったところで、授業のために途中で帰らざるを得ないという状況に・・・。残念。来年こそは上賀茂神社での狂言も見よう!と、心に誓ってロシア語の講義に行きました。
葵祭
鳥集 あすか

08/05/27 多角的にものを見るということ

三年半前、同志社大学にAO入試で入学した際、提出書類に書いた自分の将来像。児童文学翻訳家、国際機関の職員、フランス語の先生・・・。18歳だった自分にはさまざまな夢がありすぎて、でもそれを全部書いてしまうと文章にまとまりがつかないから、具体的な職業は挙げず、自分が将来どうなりたいか書いた。
「さまざまな価値観を受け入れ、多角的な視野でものを見ることの出来る人間になりたい」。
言うのは簡単だけれど、実際そんな人ってなかなかいない。あれから三年半が経過して、自分の追う夢、考え方、興味の方向など、すっかり変わってしまった部分も多いけれど、理想の将来像だけは今でも変わっていない。

三月に、昨年タイ王国政府主催のフォーラムで知り合った友人を訪ねて、インドネシアを訪れた。元々東南アジアの陸続きの国々だけを訪れる予定だったところ、出国直前にやっぱりインドネシアにも行くことにしたので、滞在期間は本当に短かった。しかし、心優しい友人が、彼の通う大学の副文学部長の先生とお話ししたり、英文学科、そして日本語学科の学生さんとディスカッションをする時間まで作ってくれ、その短い滞在は本当に貴重なものとなった。英文学科の先生と話しているとき、「日本人は、どうしてイスラム教とテロリストを結びつけるのか。どうして、過激行動に走る一部のテロリストを見て、イスラム教を否定するのか。」と質問された。

インドネシアが世界最大のイスラム教徒人口を抱える国であることは、日本ではあまり知られていないのが現状である。それに加え、私たちが日本で耳にするインドネシアの情報といえば、ストリートチルドレン、貧困、津波・・・どれも暗い話題ばかりだ。それゆえ、日本人のインドネシアに対するイメージは決していいものとは言えない。一日五回祈り、豚肉は食べない。その他、多くの制約のあるイスラム教徒の生活。偶然、英国留学時代の一番の親友がイスラム教徒であったため、私にとってイスラム教はそれほどかけ離れた存在ではなかったが、一般的に、彼らの生活は私たちには馴染みの薄いものであり、簡単に理解することはできないかもしれない。

しかし、理解しようとする姿勢さえなければ、それ以上話は進まない。インドネシア滞在中、ずっと一緒にいてくれた友人は、一日五回「ちょっと行ってくるから、待ってて。」と言ってどこかに行き、15分後くらいに「お待たせ」と言って戻ってきた。最初は何か分からなかったが、彼はお祈りに行っていたのだ。毎日五回祈る友人に囲まれ、街を歩けばコーランを読む声が聞こえてくる。彼らの宗教を理解したくて、帰国前日に友人にその旨を告げると、モスクに入れてくれると言った。さっそく連れて行ってもらい、信者ではない私はモスクの一番後ろにちょこんと座った。時間が来ると、人がぞろぞろ入ってきて、手を洗い、お祈りを始める。無宗教の私は、メッカに向かって真剣に祈る友人は、一瞬別世界の人のように思えたけれど、友人はお祈りが終わるとまた私のところへ戻ってきて「お待たせ、じゃあ行こうか」と声をかけた。奥の深い、研究し始めたら一生を費やせるような「宗教」というものを一瞬で理解しようなんて甘い考えである。しかし、私はそのモスクで、彼らの信じるものを垣間見ることができた。本を読んだり、授業を受けることももちろん大切なことだけれど、実際その場で体験することは、それには到底敵わない価値がある。あの日、真剣に祈り、祈りの後には笑い合う彼らの日常を垣間見て、「イスラム教は危険な思想を持った宗教だ。」という貧しい考え方を、改めて拭い去ることができた気がした。

これはたったひとつの例に過ぎないが、18歳の時なりたかった自分の将来像に近づくため、私はこれまでいろいろなものを多角的な視野で見る努力をしているつもりだった。しかし、最近、自分の視野の狭さに気づかされる出来事があった。

中国四川省の大地震。被災地の様子は、ここスイスでも連日テレビや新聞で報道されている。悲惨なことに、私の中国人の友人の一人も四川に住んでいる。地震発生後、一週間は連絡が取れず、どうか生きていてほしいと、遠く離れたスイスから祈ることしか出来なかったが、一週間後共通の友人に彼の携帯電話からメールが届き、無事が確認できた。地震発生当時、彼は四階に居て、立っていることも出来なかったという。今は、まだ余震の恐れがあるため、大学の寮には戻れず、家族と友人と共に避難所で暮らしているそうだ。遠く離れた場所でも、一人友人が居るだけで、こんなにも身近なことに感じられる。世界はそんなに広くないと思う。

友人が被災者であることもあり、今回の地震に対する報道にはかなり耳を傾けているつもりであった。しかし、現在の私の情報源は全てスイスかフランスルーツ。いつも、学校に通う電車の中に置かれているフリーペーパーと、毎晩のテレビニュースから、慣れないフランス語で情報を得ていた。もちろん私の語学力不足で、重要な単語が理解できなかったり、大切な情報を逃していたことは多々あるだろう。しかし、ここで、フランス語で得られる情報では、今回の地震の対応に関して中国政府は批判しかされていない。「中国人は、オリンピックだけ成功すればいいと思っている」「中国政府は、海外からの支援を効率的に受け入れられていない」などといった記事を目にした。そんなニュースばかり見ていたので、私も自然とそのような考え方をするようになった。

しかし、そんなある日、韓国人の友人とインターネットで会話し、中国の地震の話題になり、私が自分の見聞きしたことをもとに意見を言うと、「オンニ(韓国語で、”お姉さん”の意味。)、私はそう思わないよ。救助のおじちゃんが頑張ってる姿や、温家宝首相が積極的に被災地を回ってる姿、報道されているよ。」と教えてくれた。

自分がそれまで目に、耳にしてきた情報と全く違ったことを言われ、その場では受け入れることが出来なかった。しかし、あとでインターネットを利用して日本ルーツで情報を得て、自分の意見がいかに偏っているか思い知った。メディアの力の恐ろしさを感じた。同じ事柄でも、異なった複数のルーツで聞けば多角的視点でその事柄を見ることが出来るけれど、たった一つの源から情報を得続けると、その情報に洗脳されてしまい、あたかもそれが事実であるという錯覚を起こすようになる。自分は絶対そうなりたくない、多角的な視野を持った、さまざまな価値観を受け入れられる器の広い人間になりたいのに。今回の件で、偏った視点を持っていた自分を深く反省した。

パリ政治学院への留学を決意したのにはさまざまな理由があるけれど、その一つはやっぱり、もっとさまざまな価値観を受け入れ、多角的な視野でものを見ることの出来る人間になりたいから。いろんな考え方を持ったフランス人、世界中から集まった留学生とたくさん意見交換をする、そんな機会を得られるから。TOEFLのスコアで出願したので、英語のみで授業を受けることもできる。でも、フランス語が出来たら、受けることの出来る授業は倍以上に増え、フランス語圏の学生と肩を並べて学べる。今、私は、そのための下準備を、スイスのこの小さな街ローザンヌでしている。

ここでの生活も一ヶ月が過ぎた。まだまだ勉強不足だと日々感じるけれど、毎日確実に言葉に出来る単語が増え、だんだんフランス語で自分を表現できるようになってきた。自分にとって三つ目の言葉、フランス語。

さまざまな価値観を受け入れられる器の広い人間になろう。
日本語、英語、そしてフランス語を使って。

古山 彰子

08/05/08 春休みと、新たな生活の幕開け

この四月から、4回生になりました。現在スイスで語学留学中、後期からはフランスに留学予定ですが、今年もWeb学生記者として活動していきますので、どうぞよろしくお願いいたします。

就職のために使おうと思っていた3回生の3月。スイスの語学学校とパリ政治学院に留学すると決めたので、ぽっかり予定が空いてしまいました。これからはじまる1年半の欧州での留学を控えて、私はこの一ヶ月友人を訪ねて東南アジアをまわりました。
韓国から始めて、シンガポールでは現地のジュニアカレッジ主催の国際フォーラムに参加して、その後ベトナム、ラオス、タイ、マレーシア、シンガポールにもう一度戻って、最後にインドネシアにも行きました。
私は昨年11月、タイ政府主催のASEAN+3の青年のためのフォーラムに日本青年代表団の一人として参加したのですが、今回再会したのは、そのフォーラムで知り合った友人がほとんどです。特に、ラオス、シンガポール、インドネシアでは友達に本当に良くしてもらって最高に楽しい時間を過ごせました。

今、あなたが誇りに思うものはなんですか?と聞かれたら、私は真っ先に友達だと答えます。こんなに素敵な人たちに囲まれて日々生活できること、普段なかなか会えなくて、連絡を取り合っていなくても再会したら昔と変わらない笑顔で迎えてくれる友人がいること、本当に私の宝物です。

去年の11月、タイ政府主催のフォーラムに参加するまでは、私は東アジアにほとんど友達がいませんでした。
去年の10月、東京で行われたJapan-ASEANのフォーラムに参加するまで、私はASEAN10カ国を即座に言うことすらできませんでした。
こんなに近くて、似ている部分もたくさんある国々なのに。
この半年弱で、東アジアという自国の所属する枠組み、そこに位置する国々に目を向けることで、いろんなものの見方が変わった気がします。

私の大好きな写真家・長倉洋海さん(同志社大学法学部卒)の著書の中に、「自分だけの世界地図を描こう」という言葉があります。今回旅をして、自分の中の世界地図の、今までほとんど何も書かれていなかった東アジアの部分に、少しだけ、自分だけの地図を描くことができました。
シンガポール・チャンギ空港に着いたら、地下鉄MRTに乗ってSembawang駅で降りる。改札を出たら左に曲がって直進、二つ目の信号を左に曲がって二軒目が、シンガポールの親友の住む家。そこにいけば、彼女と、彼女の家族の笑顔にまた会える。その道を直進して10分ほど自転車で進めば海が見えてきて、向こう岸はもうマレーシア・・・。
今まで国の名前しか知らなかったシンガポール。
旅を終えた今、いろんな思い入れで、シンガポールという言葉を聞いただけで胸がいっぱいになります。

私にとって、世界の大部分はまだまだ白地図です。
だから、これから、自分だけの世界地図を描いていきたいと思います。

一年半の留学生活。
これから何が起こるのか、何を学ぶのか、毎晩、明日の朝が来るのが楽しみな、そんな日々が始まりました。

古山 彰子

08/03/31 「卒業」

生憎の天気かと思いきや、何とか雨が止んだ中、卒業式が行われました。

4年間の学生生活を終え、4月から社会人となって働くことに今、期待と不安が織り交じった気持ちを抱いています。

今まで「学生」という身分にどれだけ守られてきたか。
小、中、高、大学と進学するごとに、毎回卒業式はあったのだけれど、今回が本当に学生を「卒業」する時です。

これからは自分の判断、選択、責任が問われていく中、学生時代に培ったこと、出会った人のことを糧にまた一歩ずつ大きくなっていきたいと思います。

卒業式において、学長からの祝辞がありました。
その中で、私の胸を強く打った言葉があります。

それは「ここが皆さんの青春の原点であり、永遠の母校です。」というものでした。
確かに、同志社大学の学生として学べたことが私にとっての青春であり、そして卒業したとしてもまた戻ってきたいと思える母校なのであると感じました。

そして、学長からの最後の言葉で「おめでとう。いってらっしゃい。」と強く激励された瞬間、これは終わりと同時に始まりであると気づかされました。

よく「終わりは始まり」と言いますが、終わりや別れは決して悲しいことではなく、むしろ未知なる扉を開いていく第一歩なのです。

私達4回生は卒業して社会に出てゆく人がほとんどだと思いますが、今後とも前向きに、楽しく、そして誇りをもって旅立っていきたいと思います。

ありがとうございました。

英文学科4回生 小野 秀子

08/02/27 追いコン

2月23日

今日は僕の所属している「日本中を走る会」というマラソンサークルの追い出しコンパがあった。僕が一回生のときに友人と立ち上げた、総勢7名の小さな小さなサークル。
今年の卒業生は僕を含めて3人。

会場は、三条寺町にある、すき焼きの専門店。
このすき焼き屋は僕にとってあまりに想い出深い。

それは2年前にさかのぼる。
僕が二回生のころ、その春に卒業する一人の先輩がいた。
その先輩には長年の夢があった。
それは「東海道五十三次」を自分の足で走りきること。

僕と友人の二人が、サークル結成時からお世話になり続けた先輩の夢を叶えようと、三月中旬のある日、東海道の起点、東京・日本橋に降り立った。
十一日間かけ、京都・三条大橋の終点に向け、先輩とともに走り抜けるために。

箱根の峠で冷たい雨に降られ、静岡の三島宿で爪が剥れ、滋賀・三重県境の鈴鹿峠では愛知で合流してくれたサークル部員が夕暮れ時に道に迷い

11日間500キロの道のりを走りきった後の打ち上げが、この三条寺町のすき焼き屋だった。

年季の入った店内の急な階段を上れば、二年前にここに来た時の脚の痛みがよみがえる思いがし、二年前と同じすき焼き鍋を仲間と囲むことで、箱根峠や鈴鹿峠でお互い励ましあった仲間に対する情感が胸の底から湧きあがってくる。

食事後、サークルの会長が、部員全員にある贈り物をしてくれた。
手作りの、アルバム帳だ。会長が、自分のデジカメと、サークルのHPから写真を選り抜いて、メンバー一人ひとりにアルバムを作ってくれたのだ。

なんという感動、なんという嬉しさ。
サークル結成時からの活動が全て、このアルバムに詰まっている。

初めての出場大会、北海道サロマ湖60キロマラソン、30度の猛暑に苦しめられた瀬戸内海しまなみ街道100キロマラソン、標高700メートルの峠を仲間と励ましながら走った京丹後100キロマラソン、高知四万十川100キロマラソンや、熊本阿蘇100キロマラソン、そして東海道五十三次の日本橋、三条大橋での写真に、去年の夏、サークルのメンバー4人で小樽から那覇まで自転車で日本縦断をしたときの写真。

想い出深い写真がいっぱいだ。それぞれに脚の痛みや、仲間同士励ましあいながら、感動で涙してゴールした時の瞬間が思い出されて、いまここにいる仲間に対して、いいようのない情愛や、友情や、強い思い入れの情、といったものがとめどなく沸いてくる。

人生においていちばんに大切なものは、自分にとってはこの「日本中を走る会」の仲間と、想い出だ。

改めて、そのことを確信した追いコンだった。

会を終えると、三条寺町から見上げる京の夜空には、白い粉雪がしきりに舞い散っており、もの寂しく、それでいて幻想的な思いがした。
涙目の後輩と、肩を抱きすくんで別れを惜しむ。後輩の顔がよく見えなかったのは、降りしきる粉雪のせいでなく、自分の涙だったのかもしれない。

清田 康晃

08/02/15 まつぼっくりの詩

「私はその人を先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚かる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。」これは夏目漱石の晩年の作品『こころ』の冒頭ですが、私も彼をどう呼ぼうかと悩みます。一度もお目にかかったことがないのに、漱石のように‘先生’と気安く声を掛けるのは畏れ多い。かといって、毎日のように世話になっておきながら、新村出(いずる)氏と字を連ねるのは何だかよそよそしい。あいだを選んで‘新村先生’と書くことにしましたが、どこかぎこちなさが残って気持ちが良くないのです。

今出川キャンパスから地下鉄で北へ一駅進むと、鞍馬口という駅があります。朝に搗いたおはぎを並べている和菓子店や、年季の入った柱から木の香りがする仏具店など、かつての地域の暮らしがそのまま今に残っているような、落ち着いた雰囲気が周囲に広がっています。道は昔のままで細く入り組んでいて、目的の小山中溝町に辿り着くまでに何度も同じ路地を行き戻りしました。

門をくぐると、ばさりという音がしました。野鳥が庭の木の梢から飛んだのです。それからは全くの無音の世界になりました。鳥が訪ねてきても羽音でわかる。そんな自然の音に囲まれた生活に惹かれたのでしょうか、国語学者の新村出は、譲り受けた木戸孝允の邸宅を小山中溝町に移築しました。大正12年のことです。

新村先生の住まいは、現在は重山文庫として使われ、そこでは先生の全集や未発表の論文、その他に往復書簡や収集した資料などを保管しています。そしてそれらは国語研究の発展のために活用されているのです。私が訪問した日も、同志社大学の院生が文献の調査をしていました。

今年の1月に、広辞苑が10年ぶりに大改訂になり、第六版が出版されました。時代を反映した「イラク戦争」「ブログ」「メタボリック症候群」などの新語も新収録されたことで話題になりました。重山文庫にも広辞苑が第一版からずらりと並んでいました。実際に新村先生がお使いになられた辞典もあり、不思議な気持ちで鄭重に頁を繰りました。誤字脱字があれば、その都度訂正をし、また新事実が発見された場合も刷り替えなければなりません。第四版は、雨後の筍のように夥しい数の付箋がびっしり貼られて、朱色で手直しを加えてありました。言葉の一つひとつに真摯に向き合った先生の人柄が偲ばれます。生前に先生が詠んだ下の句も、そのような苦悩を表現したものだと感じます。

<国語辞書 いまだヴの音 ヴの文字を 立てずにゐるを いかにかはせむ>

新村先生の書斎や座敷には、日に焼けた分厚い辞書とともに、まつぼっくりが置かれていました。先生は旅先でまつぼっくりを拾っては、自分の部屋に集めていたそうです。蜂の巣かと思うような均整のとれた大きなものや、バナナを固めたら出来上がりそうな形のものもあり、先生が興味を抱かれるのもわかる気がしました。言語という、突き詰めて考えると非常に難しい学問に向かうときでも、先生は、まつぼっくりと遊んだ、おさな心の記憶をいつまでも大切に抱えていたのでしょう。新村先生の目は常に、これから言葉を学ぼうとしている人に向けられていたのです。

<ひい孫に やさしく書いて やる文句 じつにむつかし そのかなづかひ>
新村出『白芙蓉』

※重山文庫の開室日は月・金曜(祝日は休み)

寺西 洸二
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