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Web学生記者日記

2008年度

09/03/23 今年度を振り返って

三月も後半を迎え、2008年度が終わろうとしています。私は昨春からキャンパスが今出川に移り、三回生として学生生活を過ごしました。大学に慣れてきたこともあって、学業・アルバイト・課外活動において、今年はバランス良く力を注げたなと思っています。

そんな中で、私はある先輩から教訓ともいえる言葉を教えてもらいました。

それは、「できる、できないじゃない。やるか、やらないかだ」です。

その先輩はチャレンジ精神旺盛で且つ責任感は人一倍、というような尊敬すべき方です。だから私はこの言葉がかなり自分に影響したと感じます。人それぞれ本当に自分がやりたいことってあると思います。私も同じです。そして、なかなか挑戦できない、踏み出せないことが多いです。でも、まず先にできるできないを考えるのではなく、自分はやるのかやらないのかってことが重要である。私はこの言葉から学びました。もちろん自分の力量を見極めるのも大切ですが。

私の学生生活は残すところ約1年。勉強も遊びも、まだまだやりたいことがたくさんあります。私はそれらに対して、やっておけば良かったと後悔することのないように、前向きに取り組んでいきたいです。
今出川キャンパスの梅の花

今出川キャンパスの梅の花

森川 恵

09/03/03 学生生活で感じたこと

日々の学生生活で感じたこと、それは大学には色んな人がいて皆個性的であること。

すごく思うのは一人一人が違うということです。大学生活を送る上で、その違いを認め合えるか、受け入れられるかが大事だと思います。自分の知らなかった世界が広がっていくかどうかは全部自分がどれだけ心を開いているかによると思います。

どちらかというと、皆に合わせようとしている自分がいました。でも大学に入ってからは、一人一人は違うし服装も考え方も授業の選択も生活スタイルも異なるし、その中から自分と似ている人を探し出すのは困難です。皆それぞれ自分のポリシーを持って生きていてそれを尊重しなければなりません。そして他人の考え方を尊重することは、自分の生き方、価値観を作り出すことにもなります。

それまでは全く異なる生き方をしてきた人とは特に出会ったことがありませんでした。勿論きっと考え方は少しずつ異なっていただろうけれど、なんとなく同じ、という人と常に一緒だった気がします。しかし、世界には色んな人がいて、皆それぞれ生きているのだって思いました。その事に気付いた時初めて自分の中で他人の個性を認めることができました。一人一人は違って、異なって、バラバラであるのだけど、話してみたら友達になれるし、仲良くなれるし、分かり合えるし、助け合えることができる。そしてそれが一人の人間であり、友達であり、仲間でありの関係であるのだと気付きました。

それならば私も自分らしく生きたいし、頭で考えるのではなくて実際に個性を尊重したい。そしてそれは今まで話したことがない、話しにくそうと思っていた人が実は最高の友人となれ、新しい世界の扉を開いてくれる、そんなことをこの大学生活2年間で気付きました。何も世界を旅しなくてもこんな身近に、こんなに豊かな新しい世界を持っている人がいたんだっていう事に衝撃を受けました。そのためには絶対自分から心を開くこと、何の先入観、偏見も持たないことが大切だと思いました。私は大学に入学してから、自分と全く異なった人と出会ったことでたくさん世界が広がり、自分の中で多様な価値観を尊重できたという自分に驚き、こんなに色々な人がいる豊かな世界が愛しく思えました。だから大学で学んだこと、それは自分から心を開くこと、そうすれば新しい世界が広がること、そして他人を尊重すること、それが新しい自分へ繋がると思いました。

人間誰しも通じ合えるものがあるし、興味を抱くところや笑う所も同じだから、その時仲良くなりたい、もっと友人になりたい、という自分から心を開くという気持ちが一番重要だと思いました。

後藤 優里

08/11/14 糺ノ森

下鴨神社の社叢・糺ノ森。
古代から続くこの森は、変わりゆく京都のまち中に、悠然と存在している。
ここでは毎年伝統行事の葵祭りや御手洗祭りが行われており、多くの人で賑わっている。

にぎやかな行事を楽しむのも良いけれど、私はゆったりと森林浴をするのがお気に入りだ。

早朝、森はひと気が少なく静寂な雰囲気に包まれている。木々から生成された新鮮な空気が、しっとりとそしてひんやりと漂い、ときどきそよぐ風が優しく頬を打つ。そっと耳をすませると葉と葉が揺れうごく音、風に吹かれて小枝の落ちる音が聞こえる。そして時々、気まぐれに鳴くトリの声が重なる。立ち止まってこの空間に浸っていると、あまりの心地よさにふと時間や現実を忘れてしまう。

ここは自分にとって、長年の通学路であり散歩道であり、憩いの場。わざわざ回り道したくなる、大切な場所だ。
糺ノ森
森川 恵

08/07/28 山田悦子さんの講演

小学校の頃、近所に知的障害を持つ女の子がいた。彼女は体育の時間になると、なぜかわからないが、授業には参加させてもらえず、ひとり教室で待つようになっていた。
中学校のとき、宿題を忘れると、黒板の前に並ばせられて、男の子は順番にほっぺを叩かれた。女の子には気が引けるのか先生は叩かなかった。ただ、同じ町内にいた知的障害の女の子は別な扱いを受けた。黒板の上には「自由・平等・博愛」の額が掲げられていた。「戦後民主主義のもと、今では考えられない教育を受けてきたんです。」講演者の山田悦子さんはそう語った。
NHKの番組で、知的障害児入所施設で働く人々を見て、心が動いた。「これだ」と思った。幼い頃、その目で見て感じた心のわだかまりを、養護施設で働くことで拭おうとしたのかもしれない。

人生の進路が大きく歪んだのは1974年のこと。山田さんが働く養護施設で園児二人が行方不明になり、遺体で発見された。警察は殺人事件と断定し、山田さんは容疑者として逮捕された。無罪判決を勝ち取るまで、実に25年の闘いの始まりだった。
 
先月、同志社大学の学際科目『マスメディアの現場』の講義に、冤罪被害者の山田悦子さんがゲストでいらっしゃった。ご自身の実体験をもとに、日本の司法制度の問題点や人権を侵害しつづける犯罪報道について、貴重なお話を聞かせていただいた。
警察の留置所で24時間いつでも行なわれる取り調べ。日々あがる証拠を否定する毎日がつづいた。身に覚えのない罪に対し、いつしか闘う強靭な気持ちが萎えていったという。法律や人権とは何なのだろうと思い始めたそうだ。
「日本国憲法に‘法の下の平等’があるだけでは基本的人権は尊重されません。なぜなら、日本国憲法の保障する司法のもとで、私は(無実の罪で)二度逮捕されたのです。」

来年から裁判員制度が始まる。裁判の迅速化のため、公判前整理手続も行なわれる。証拠の検証は原則一審のみであり、国民から選ばれる裁判員が参加するのは、まさしくこの一審である。一審の判決が全てを左右しかねない。無罪判決を勝ち取るのが今よりも難しくなるのではないかと山田さんは危惧している。また、罪が確定するまで犯罪者扱いをしてはならないという‘無罪推定の原則’を守っていないマスメディアにも厳しい目を向けている。
「司法手続や刑事裁判を見れば、その国の文化の質や思想レベルがわかります。」
死刑が加速するなどの日本の現況に、山田さんは司法の幼さを感じている。

裁判官は国家の一翼を担う立場でありながら、一方で人の子でもあり、当然立身出世を考えるものと山田さんは語る。無罪判決を出して冷遇され、晩年は地方回りをした裁判官もいると言う。良心と避けがたい保身の気持ちの狭間で苦しんでいるというのもまた事実らしい。裁判官という人の懊悩をも理解し、人を憎まない山田さんの寛容な心と、真に改善すべき制度やその問題点をえぐり出す鋭い眼差しが印象的だった。

俳優・木村拓哉さんが検事を演じるテレビドラマの中に、印象的な台詞がある。冤罪をつくり上げ、一人の人間を死に追いやった警察官に対して放った言葉から。
「俺達みたいな仕事ってな、人の命奪おうと思ったら簡単に奪えんだよ。あんたら警察も、俺ら検察も、そしてマスコミも、これっぽっちの保身の気持ちでな、ちょっと気を緩めただけで人を簡単に殺せんだよ。俺らはそういうことを忘れちゃいけないんじゃないすか。」

付け足すなら、そういう司法制度に与っている私たち国民一人一人も、そのことを決して忘れてはならないと思う。

寺西 洸二

08/07/04 野鳥図鑑

数年前の話になりますが、なじみの本屋でふと野鳥の図鑑をぱらぱらめくったことがありました。どういういきさつか憶えていませんが、いざ眺めてみると少年時代の興味が湧き上がってきて、なんだか夏の日の陽だまりに佇んでいるような気になりました。

ハクチョウの純白は、真っ青な空に映えるなあと思い、ライチョウの冬羽とそれに浮かぶ紅い肉冠の色合いは、雪に落ちた寒椿のような鮮やかさを感じた記憶があります。梢で息をひそめるフクロウの姿を見て、自分も深い森に抱かれてずっと夢の中でまどろんでいたいと心から思いました。

野鳥だけに、色とりどりで、その一種一種の色調を訪ねてページを繰っていると、スズメの項目に行き着きました。その解説文が印象深く、今でもひょいと頭の中を渡っていくので紹介します。

<人と暮らす鳥で、たとえば山地の集落から人がいなくなると姿を消してしまう。群れで暮らし、草の実などを食べる。繁殖期は昆虫類を食べる。人家の屋根のすき間などに球形の巣をつくる。>

学術的な分析に留まらず、どこか温かみがあり、生き物への情愛をこめた文章です。こんなにも対象物に迫った眼差しで文章が書けないものかと反省をせずにはいられません。最初の一文が、私は好きで、メモを取って手許に残してあります。

おばあさんの作った糊をなめて、舌を切られるスズメの昔話があります。古来、人の生活のとなりにはいつも小さな留鳥がいました。都会では環境が悪くなり、随分と数を減らしていることでしょう。それでも、夕暮れの合図はカラスの「カアカア」であるように、スズメの「チュンチュン」で朝がはじまる生活は、今も昔も変わりません。

人間が他の生き物と共生しているということに、今更ながら奇跡を感じます。少し近づいたくらいでも、ピョンピョンと跳ねて逃げてしまい、ハトなんぞと比べて人懐っこさはないものの、人がいないと自然と姿を消してしまうという可愛げも持ち合わせているのだから憎めません。

本年7月、北海道で洞爺湖サミットが開催されます。待ったなしの状況までになった環境問題が取り上げられる予定です。生活の場を失い、絶滅という黒い海におびえながら、刻一刻と溶ける氷の上で右往左往している生き物たちが、今たくさんいます。我々の周りから、例えばスズメが姿を見せなくなったとしたら、それはひょっとすると「次は人間の番だ」という合図なのではないでしょうか。野鳥図鑑の言葉が、胸に響いていつまでも尾をひきます。
<人と暮らす鳥で、たとえば山地の集落から人がいなくなると姿を消してしまう>

寺西 洸二

08/06/09 クラーク記念館に感激!!

今春、クラーク記念館が再び講義棟として使用されることになりました。1894年に開館したクラーク館。114年前の建物とは思えないほどモダーンなこのつくり。私の入学当初は工事をしていたため、写真でしか見たことがなかったクラーク記念館。3年越しの対面ということもあり感動も一入。幸いにも今春はここ、クラーク記念館で講義を受けることができ、114年という「歴史」の中で江戸の文学を勉強中です。

しかし、毎回思うのが「音」。廊下を人が歩く音、しゃべり声、さまざまな音がとてもよく響きます。天井が高いせいなのか、はたまたそういうつくりなのか…。休み時間はいいかもしれませんが、授業中はちょっとだけ困ります。

114年の歴史の中で、クラーク記念館で学んだ先人たちはいったい何を考えてきたのでしょうか。そして、これからのクラーク記念館の歴史の中に、「私」がいる。京田辺では新しい建物が新たな歴史を刻む中、今出川では受け継がれてきた歴史がある。

いろいろなものが、私たちの手には託されているのだろう、と感じました。

「クラーク記念館ミュージアム」のHPもご覧下さい。
クラーク記念館ミュージアム(オリジナルサイト)
クラーク記念館
鳥集 あすか

08/05/27 葵祭に行ってきました

今日は葵祭に行ってきました!
京都に来てはや3年。それなのに葵祭を見たのは初めて。せっかく京都にいるのだから、お祭りを満喫しなくては!と思っての見学。
御所出発で丁度出町柳を通るということで、1限の授業を終えてから出町柳に移動。いまだ見たことのない人の多さに(まさか今出川通りにこんなに人が集まるだなんて!)、田舎出身の私はちょっとくらくらしながらも何とか見学場所を陣取り、待機。
予定の時間を20分ほど送れて、先頭行列がやってきました。サンサンと日の照る中、参加者たちはさぞ暑かったことでしょう。日陰の私ですら暑かったのですから。
興奮する馬に、のそのそと歩む牛。交通規制の状態が半端だったせいか、自動車の往来が気になりました。
さて、行列も見せ場と思ったところで、授業のために途中で帰らざるを得ないという状況に・・・。残念。来年こそは上賀茂神社での狂言も見よう!と、心に誓ってロシア語の講義に行きました。
葵祭
鳥集 あすか

08/03/31 「卒業」

生憎の天気かと思いきや、何とか雨が止んだ中、卒業式が行われました。

4年間の学生生活を終え、4月から社会人となって働くことに今、期待と不安が織り交じった気持ちを抱いています。

今まで「学生」という身分にどれだけ守られてきたか。
小、中、高、大学と進学するごとに、毎回卒業式はあったのだけれど、今回が本当に学生を「卒業」する時です。

これからは自分の判断、選択、責任が問われていく中、学生時代に培ったこと、出会った人のことを糧にまた一歩ずつ大きくなっていきたいと思います。

卒業式において、学長からの祝辞がありました。
その中で、私の胸を強く打った言葉があります。

それは「ここが皆さんの青春の原点であり、永遠の母校です。」というものでした。
確かに、同志社大学の学生として学べたことが私にとっての青春であり、そして卒業したとしてもまた戻ってきたいと思える母校なのであると感じました。

そして、学長からの最後の言葉で「おめでとう。いってらっしゃい。」と強く激励された瞬間、これは終わりと同時に始まりであると気づかされました。

よく「終わりは始まり」と言いますが、終わりや別れは決して悲しいことではなく、むしろ未知なる扉を開いていく第一歩なのです。

私達4回生は卒業して社会に出てゆく人がほとんどだと思いますが、今後とも前向きに、楽しく、そして誇りをもって旅立っていきたいと思います。

ありがとうございました。

英文学科4回生 小野 秀子

08/02/27 追いコン

2月23日

今日は僕の所属している「日本中を走る会」というマラソンサークルの追い出しコンパがあった。僕が一回生のときに友人と立ち上げた、総勢7名の小さな小さなサークル。
今年の卒業生は僕を含めて3人。

会場は、三条寺町にある、すき焼きの専門店。
このすき焼き屋は僕にとってあまりに想い出深い。

それは2年前にさかのぼる。
僕が二回生のころ、その春に卒業する一人の先輩がいた。
その先輩には長年の夢があった。
それは「東海道五十三次」を自分の足で走りきること。

僕と友人の二人が、サークル結成時からお世話になり続けた先輩の夢を叶えようと、三月中旬のある日、東海道の起点、東京・日本橋に降り立った。
十一日間かけ、京都・三条大橋の終点に向け、先輩とともに走り抜けるために。

箱根の峠で冷たい雨に降られ、静岡の三島宿で爪が剥れ、滋賀・三重県境の鈴鹿峠では愛知で合流してくれたサークル部員が夕暮れ時に道に迷い

11日間500キロの道のりを走りきった後の打ち上げが、この三条寺町のすき焼き屋だった。

年季の入った店内の急な階段を上れば、二年前にここに来た時の脚の痛みがよみがえる思いがし、二年前と同じすき焼き鍋を仲間と囲むことで、箱根峠や鈴鹿峠でお互い励ましあった仲間に対する情感が胸の底から湧きあがってくる。

食事後、サークルの会長が、部員全員にある贈り物をしてくれた。
手作りの、アルバム帳だ。会長が、自分のデジカメと、サークルのHPから写真を選り抜いて、メンバー一人ひとりにアルバムを作ってくれたのだ。

なんという感動、なんという嬉しさ。
サークル結成時からの活動が全て、このアルバムに詰まっている。

初めての出場大会、北海道サロマ湖60キロマラソン、30度の猛暑に苦しめられた瀬戸内海しまなみ街道100キロマラソン、標高700メートルの峠を仲間と励ましながら走った京丹後100キロマラソン、高知四万十川100キロマラソンや、熊本阿蘇100キロマラソン、そして東海道五十三次の日本橋、三条大橋での写真に、去年の夏、サークルのメンバー4人で小樽から那覇まで自転車で日本縦断をしたときの写真。

想い出深い写真がいっぱいだ。それぞれに脚の痛みや、仲間同士励ましあいながら、感動で涙してゴールした時の瞬間が思い出されて、いまここにいる仲間に対して、いいようのない情愛や、友情や、強い思い入れの情、といったものがとめどなく沸いてくる。

人生においていちばんに大切なものは、自分にとってはこの「日本中を走る会」の仲間と、想い出だ。

改めて、そのことを確信した追いコンだった。

会を終えると、三条寺町から見上げる京の夜空には、白い粉雪がしきりに舞い散っており、もの寂しく、それでいて幻想的な思いがした。
涙目の後輩と、肩を抱きすくんで別れを惜しむ。後輩の顔がよく見えなかったのは、降りしきる粉雪のせいでなく、自分の涙だったのかもしれない。

清田 康晃

08/02/15 まつぼっくりの詩

「私はその人を先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚かる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。」これは夏目漱石の晩年の作品『こころ』の冒頭ですが、私も彼をどう呼ぼうかと悩みます。一度もお目にかかったことがないのに、漱石のように‘先生’と気安く声を掛けるのは畏れ多い。かといって、毎日のように世話になっておきながら、新村出(いずる)氏と字を連ねるのは何だかよそよそしい。あいだを選んで‘新村先生’と書くことにしましたが、どこかぎこちなさが残って気持ちが良くないのです。

今出川キャンパスから地下鉄で北へ一駅進むと、鞍馬口という駅があります。朝に搗いたおはぎを並べている和菓子店や、年季の入った柱から木の香りがする仏具店など、かつての地域の暮らしがそのまま今に残っているような、落ち着いた雰囲気が周囲に広がっています。道は昔のままで細く入り組んでいて、目的の小山中溝町に辿り着くまでに何度も同じ路地を行き戻りしました。

門をくぐると、ばさりという音がしました。野鳥が庭の木の梢から飛んだのです。それからは全くの無音の世界になりました。鳥が訪ねてきても羽音でわかる。そんな自然の音に囲まれた生活に惹かれたのでしょうか、国語学者の新村出は、譲り受けた木戸孝允の邸宅を小山中溝町に移築しました。大正12年のことです。

新村先生の住まいは、現在は重山文庫として使われ、そこでは先生の全集や未発表の論文、その他に往復書簡や収集した資料などを保管しています。そしてそれらは国語研究の発展のために活用されているのです。私が訪問した日も、同志社大学の院生が文献の調査をしていました。

今年の1月に、広辞苑が10年ぶりに大改訂になり、第六版が出版されました。時代を反映した「イラク戦争」「ブログ」「メタボリック症候群」などの新語も新収録されたことで話題になりました。重山文庫にも広辞苑が第一版からずらりと並んでいました。実際に新村先生がお使いになられた辞典もあり、不思議な気持ちで鄭重に頁を繰りました。誤字脱字があれば、その都度訂正をし、また新事実が発見された場合も刷り替えなければなりません。第四版は、雨後の筍のように夥しい数の付箋がびっしり貼られて、朱色で手直しを加えてありました。言葉の一つひとつに真摯に向き合った先生の人柄が偲ばれます。生前に先生が詠んだ下の句も、そのような苦悩を表現したものだと感じます。

<国語辞書 いまだヴの音 ヴの文字を 立てずにゐるを いかにかはせむ>

新村先生の書斎や座敷には、日に焼けた分厚い辞書とともに、まつぼっくりが置かれていました。先生は旅先でまつぼっくりを拾っては、自分の部屋に集めていたそうです。蜂の巣かと思うような均整のとれた大きなものや、バナナを固めたら出来上がりそうな形のものもあり、先生が興味を抱かれるのもわかる気がしました。言語という、突き詰めて考えると非常に難しい学問に向かうときでも、先生は、まつぼっくりと遊んだ、おさな心の記憶をいつまでも大切に抱えていたのでしょう。新村先生の目は常に、これから言葉を学ぼうとしている人に向けられていたのです。

<ひい孫に やさしく書いて やる文句 じつにむつかし そのかなづかひ>
新村出『白芙蓉』

※重山文庫の開室日は月・金曜(祝日は休み)

寺西 洸二
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