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刊行物「美学芸術学」目次

美学芸術学二十四号(2008)

神奈備山のある古代山背の「眺め」の美学
—神話的時空間の伝承と現前— ……… 深田進

古代日本についての歴史記述は、神話として伝承された言表と分かちがたく結びついた基盤に立っている。このとき、神話的記述に先行し、「語られたもの」の言語的表象を意味づける前・記述的な伝承がもつ可視性、すなわち直観的表象を喚起する「みえるもの」の世界を想定することも可能である。殊に、神話における様々の神の表象の多くは、空間的・時間的なパースペクティブをともなって現前する何らかの原像から、その伝承の可視性を受肉していると考えることもできる。このような神話的歴史の直観的な存在構造について、先に、大和になお生きている「上街道」の古代的な「眺め」のうちに現前してくる神の依る杜、神奈備の神話的時空間に即して考察した。

いま、新たに問題にするのは、大和のそれとは異なって、ごく限られた神話的歴史記述をもとづけている山背(山城)の「国」の現存在的な「眺め」が、どのように神奈備伝承のパースペクティブをもって可視化され、また神々の表象はその「眺め」のうちにどのように現前するようになるのかを確かめることである。ここにいう神奈備神話の伝承にともなう「眺め」のパースペクティブには、一種の「入れ子」的ないしフラクタルな構造が認められるのであり、『記紀』または『風土記』のなかでは、歴史記述としてはきわめて荒唐無稽でありながら、しかも生々しい時空間的臨場感をもたらすメタファーの伝承と転移がみいだせる。この点、大和と山背のあいだで、まずその「国」の「像」がみえる伝承の可視性に関して、時空間構造上の異同はどのように現れてくるのであろうか。

感得された“力” —正智院蔵木造不動明王坐像の造形— ……… 川野憲一

紀伊の霊峰にまします真言密教の根本道場・高野山金剛峯寺。その子院・正智院に伝来する木造不動明王坐像(以下、正智院像)は、西塔に伝来した大日如来像と並ぶ高野山最古の木彫仏であるとともに、東寺講堂不動明王像(以下、講堂像)、同寺西院不動明王像(以下、西院像)と本邦最古の不動明王彫像の座を争う傑作として知られる。

頭頂からこぼれおちんばかりに表された巨大な蓮華、分厚い筋肉の隆起をありありと感じさせるしっかりと組まれた両脚、極限まで肥満した肉体。両手を前方に突き出し、真正面を見据え、身じろぎもしない“不動”の姿。この像の前に立つ者は、通常の調和を逸脱した造形の生み出す圧倒的な“力”を感じずにはいられない。

しかし、また、全体を支配する“力”の陰に宿る繊細な感性もこの像の魅力である。現実的な質感を感じさせる細やかな髪筋の表現、微妙に折れ重なり、波打つ衣端の処理、上下の衣の重なりを的確に把握し、彫出する造形感覚。勢いまかせの“誇張”、“量感”だけではない、確かな彫技の高さもこの像にはしっかりと息づいている。

このように日本彫刻史上において重要な位置を占める本像は、当然のことながら、これまで平安彫刻史、密教美術をあつかう論著においてしばしば言及されてきた。しかしそれにも関らず、本像の制作年代、図像上の系譜、制作にかかわるコンテクストなど、様々なことがいまだ明確とは言えない状況にある。

この小論の目的は、このような“力”と繊細さを併せ持つ類稀な宗教彫刻がいつ、誰の手によって、何のために制作されたのかという疑問に対して一つの解を提示することにある。

この疑問を解き、答えにいたるプロセスを最初に示すと

  • 正智院像の造形上の特色を詳細に検討し、そこに奈良時代、大寺の造像において培われた繊細にして写実的な造形感覚と奈良時代から平安時代初期にかけて活躍した山林修行者、聖の造像の場で培われた逸脱を厭わない“感得”の造形が共存していることを指摘し、九世紀もかなり早い時期に双方の場を往来した存在によって造像された可能性が高いことを指摘する。
  • 図像上の系譜を検討し、その造形が、中国・唐代の作例をベースに大幅に改変を加えたものであることを指摘し、九世紀前半において唐代造形作品に関する最新知識を持ち、かつそれを自らの意思によって大胆に造りかえることのできる人物—空海が造像に関与した可能性が高いことを想定する。
  • 2までの結論を踏まえて、空海が持つ山林行者・聖につながる側面と、最新の理論化された密教の宣伝者としての二面性を指摘することで、山の霊力の結晶ともいうべき正智院像の造形が、前者の側面が色濃く反映した高野山における空海修禅のためのものであることを主張する。

それではこの結論にいたるために順次論をすすめる。

シュジェールとサン=ドニ修道院の図像起源
—サン=ヴィクトルのフーゴーによる「最後の審判」の解釈— ……… 新井思郎

サン=ドニ修道院聖堂の図像解釈は、従来はアーウィン・パノフスキーの説が有力で、九世紀のシャルル禿頭王時代の神学者ヨハネス・スコトゥス・エリウゲナ(Johannes Scotus Eriugena, 801/825−877−)によるディオニュシウス文書の影響に依るもの、つまり、カロリング・ルネサンスの人文主義の影響のもとで培われた、ディオニュシウス解釈に基づいていると結論づけるのが一般的であった。

しかしながら、近年では、このパノフスキーの定説に対して疑問を投げかける研究が相次いで発表されている。グローヴァー・ジンは、ディオニュシウス文書の解釈を含む、シュジェール(Sugerius, 1081−1151)の「アナゴギクス・モス」に言及した言葉が、エリウゲナのラテン語訳では用いられず、サン=ヴィクトル学派の創始者フーゴー(Hugo de Sancto Victore, c.1096−1141)の著作に頻繁に現れることを示し、従来のエリウゲナ支持説に異議を唱えた。また、コンラート・ルドルフは、中央扉口の図像分析において、十字架を背にしたキリストの図像が、フーゴーの著書である『キリスト教信仰の秘跡について』De sacramentis christanae fideiにおける聖書解釈なしには成立しえないことを示した。本稿では、これらの近年の研究に沿いながら、サン=ドニ聖堂の「最後の審判」の図像が、シュジェールと同時代の神学者、サン=ヴィクトルのフーゴーの解釈に基づくものであったことを明らかにしたい。

『教訓聖書』の成立とその寓意的解釈 —オーストリア国立図書館所蔵『ウィーン二五五四番写本』におけるカインとアベルの図像— ……… 木田沙弥佳

『教訓聖書』Bible moraliseeとは十三世紀初頭のパリで考案された彩飾聖書の一形態であり、聖書について歴史的、寓意的、教訓的な解釈を与えようと意図されたものであると一般に認識されている。聖書本文のみならず、聖書の一節ごとに添えられた註釈文のためにも逐一挿絵が描かれることによって、羊皮紙の上に整然と並ぶ八個のメダイヨンがその特徴的な外観を形作っている。

現存する『教訓聖書』は十五点が知られており、そのなかでも十三世紀前半に制作された四点盧が最初期の作例として重要である。一九九〇年代以前においては、古書冊学的、あるいは様式史的な観点から、制作年代・制作地、あるいは現存する『教訓聖書』間における派生関係といった問題に関して基盤となる研究が築かれてきた。

一方近年の研究は、様式史的な観点から、図像における政治的・社会的な側面へとその関心を移行させてきている。しかしながらこれまでの研究史において、『教訓聖書』を成り立たせているところの様式的な特質、つまり聖書のテクストと聖書の図像、ならびに、註釈のテクストと註釈の図像という四つの基本構成要素を核として、聖書に秘められた寓意や教訓を明らかにしようとする特異な構図が、どのように成立しえたのかということについて深く言及される機会は多くはない。

本稿でとりあげるのは、最初期の四点の『教訓聖書』のなかでも、最も早い時期に制作されたもののうちの一つとみなされているウィーン、オーストリア国立図書館所蔵『二五五四番写本』である(以下『ウィーン二五五四番写本』とする)。その豪華さや完成度の高さにもかかわらず、この写本の制作時期や制作地、依頼主、テクストの典拠といった点に関しては未だに解明されない部分が多く残っている。そこで本稿では、これらの問題の基礎となる制作年代と依頼主について、先行研究に依拠しながら考察することを第一の課題とする。次いで「創世記」におけるカインによるアベル殺害の場面を対象とし、聖書のテクストと図像、そして解釈のテクストと図像との密接な結びつきからなる寓意の構造を明らかにすることを第二の課題としたい。

ジョヴァンニ・ディ・パオロ作《天地創造と楽園追放》
—図像解釈の試み— ……… 峯近慶子

一五世紀、初期ルネサンスにおけるシエナ美術は、科学的・合理的な手法で写実主義が普及しつつあった隣国フィレンツェとは対照的な様相を呈した。中世都市であり続けることを選んだシエナは、ルネサンス様式への流れに逆行し国際ゴシック様式に固執した。ジョヴァンニ・ディ・パオロ(Giovanni di Paolo di Grazia, 1403−1482)もまた中世回帰現象を起こした、シエナ派を代表する画家の一人である。わけても幻想的で、神経質な表現様式や独自の図像モチーフから、注目すべき画家であることは認識されてはきたが、画家自身や作品に関する資料は豊富とはいえず、未だ十分な研究が尽くされていない。

本論で取り上げる《天地創造と楽園追放》は、サン・ドメニコ聖堂内のグエルフィ家の個人礼拝堂のため に一四四五年に制作された。現在は各地の美術館に四散しているグエルフィ祭壇画のプレデッラ(裾絵)の一部分とされている。本作品は画家の全作品中で、最もよく知られている作品であるにもかかわらず、現在までグエルフィ祭壇画の成立年代、パネル構成、図像プログラムは全貌が解明されるに至っていない。しかしながら、本作品に描き込まれた“mappa mundi”(天地図)図像はその独自性ゆえに諸々の先行研究において議論の対象となっている。それは画家の表現様式、すなわち幻想性や中世的なモチーフが結実した作品であると同時に、画家自身が帰属するシエナ美術を体現しているといえるからではなかろうか。本論は、《天地創造と楽園追放》に描き込まれたモチーフがどのような象徴性をもち、どのようにして主題を構成するものであるのかを検証し、それがまた祭壇画全体のプログラムにおいてどのような意味を担うのかを明らかにすることを目的とする。

本論は、次のような手順で考察を進める。まず第一章で、グエルフィ祭壇画の図像プログラムの再構築に関して長らく権威となっていたポープ・へネシーの説を再検討し、また作品の様式、寸法、年記から確証を得られた点を再確認することによって、祭壇画の全体的プログラムと現在における祭壇画の構成の問題点を提示することとする。その上で第二章以降において、プレデッラ部分《天地創造と楽園追放》の図像解釈を試みたい。先行研究においても容認されていることであるが、本作品はキリスト教図像の伝統の中でもひときわ異彩を放っている。なぜなら一般に、“mappa mundi”図像は「天地創造」場面において用いられる図像であり、「楽園追放」場面と共に配置されることは稀であるためである。加えて、ジョヴァンニ・ディ・パオロによる“mappa mundi”図像は中世の伝統的図像とは一線を画するものであるために、その特異性は「天地創造」部分に現れる“mappa mundi”図像にあると考えられるであろう。第二章では、リッピンコットが論じた“mappa mundi”概念をもとに、“mappa mundi”図像がこの作品においてどのような主題を表現し得る可能性をもつのか考察していくこととする。第三章においては、“mappa mundi”図像の図像的源泉、すなわち中世的世界観を反映した図式の伝統と、キリスト教における円の象徴性、そして画家がグエルフィ祭壇画制作以前に手掛けたダンテ『神曲』天国篇挿絵について考察する。

これらの考察を行うことによって、“mappa mundi”図像は形式的には、画家がダンテ『神曲』天国篇挿絵において試行錯誤した円環モチーフから展開し、古代地中海世界に端を発する星辰信仰とキリスト教伝統図像を融合させた象徴性を担っているということを明らかにしたい。そして、本図像におけるこの円環はプレデッラの左から右への主題の推移と、さらに中央パネルへの時間的な循環運動を伴いつつ、祭壇画全体を有機的に結びつける視覚的装置として機能していることを示したい。