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刊行物「美学芸術学」目次

美学芸術学二十三号(2007)

居初家庭園にみる藤村庸軒の茶風と美学について ……… 丸岡喜市

藤村庸軒(一六一三〜一六九九)は、江戸時代初期の大茶人で、若い頃に藪内流の茶の湯を修め、その後、武家書院的茶風の小堀遠州や、宮廷貴族との交わりの多かった金森宗和らとの交流を重ねた。さらに後年には、侘び茶の祖流・千宗旦(一五七八〜一六五八)に学んで、後世、一般に、杉木普斎・山田宗徧・久須見疎安(一説に三宅亡羊)と共に、「宗旦四天王」と呼ばれる四人の高弟のひとりと言われた。また、庸軒は、三宅亡羊や山崎闇斎に漢学を学び、その学識は他の茶人には見られぬ非常に高いものがあり、これがまた彼の茶風の個性にも繋がっている。

庸軒の茶風は、一般に、その多彩な茶の湯遍歴から、侘び茶を標榜しながらも、いわゆる書院茶と侘び茶の両方の特色を合わせもつとされている。しかし、融合的とも言えるその茶風の特質については中々論じ難く、現在のところ、彼の研究については、一部の歴史的・茶道史的研究、及び彼がかかわった建築・庭園の遺構に関する建築史的・庭園史的研究等に限られ、他の著名な茶人に比べて、比較的少ないのが実状である。現在、庸軒の建築・庭園の遺構は、京都黒谷の西翁院淀看席と大津市堅田の居初家天然図画亭−−庸軒とその茶弟である地元堅田の茶人・北村幽安との合作とされている−−しか残っていないが、この居初家の庭園についても、その成立と変遷については、従来の研究では、やや不明な点もあった。

この度、この居初家の庭園について、現当主からの直接の聞き取りを含めて、改めて資料調査と庭園実地調査を実施した。その結果、その成立と変遷の事情が、従来に比べ一層明らかになった。本論の目的は、この点を踏まえて、主として庭園美学の観点から、改めてこの居初家庭園を分析し、そこから浮かび上がった庭園の特質が、庸軒の茶風や美学とどのように関係するかを明らかにすることである。

覚々斎の茶風 —銘を手がかりとして— ……… 千宗員

茶の湯が歴代の家元によって今日まで伝えられるなか、単に型をまもるだけではなく、時代の変遷や社会情勢に応じてさまざまな創意、工夫が取り入れられてきた。流儀を伝えるという歴代の家元に共通する意識と、時代の要請に応じた茶の湯への取り組み、また家元の個性といったものも相まって、歴代それぞれの茶風が生み出されたのである。そうした代々の茶風を知ることは、今日の茶の湯がいかにあるべきかを知る一つの指標となるであろう。

ここで、「茶風」という概念については、『茶話抄』の「次の逢源斎、随流の時代迄も茶の風古躰にして、よろつ内場に利休形をたうとはれけるなり」という叙述に基づいて、実際の茶会で表現される家元独自の茶の湯の様態、すなわち点前作法をはじめ、茶会の趣向、道具の選定、道具や茶室の好み、銘の付け方といった要素はもとより、そうした家元の様態が、弟子たちや後の茶の湯の世界に波及した影響をも含めたものを総称する概念として用いることとする。

表千家六代、覚々斎宗左(一六七八〜一七三〇)は、利休流の茶の湯を守りつつも新たな境地を開いたとされている。その子の七代如心斎が現代の家元制度の礎を築き、七事式という新たな稽古の式法を制定するなど、千家茶道中興の祖に位置づけられるが、その道筋を付けたのが覚々斎であった。ところが、そうした重要な位置にありながら、覚々斎およびその時代に関する研究は手薄であった。その理由の一つに、近世の茶の湯史料の不備という点があげられよう。しかし、近年、新出史料として表千家に伝わる大量の文書史料の存在が明らかになり、史料の不備を補うことになった。そして、その中には覚々斎自筆の茶会記や道具帳など、実際の茶の湯活動がうかがえるものも含まれている。特に道具帳には、覚々斎によって道具に付けられた、実に多種多様な「銘」がみられる。覚々斎による銘で注目すべきは、その種類や数の多さもさることながら、それまではあまり用いられなかった、日常の話し言葉である「俗語」が多く使われているという点である。したがって、それらの銘を分析し、さらに、当時の茶会でそれらの銘がどのように使用されたかをみることで、覚々斎の茶風の一端が明らかになるであろう。そこで、本稿では、道具帳にみられる銘、及び茶会記を分析することにより、覚々斎の茶風と、その茶風が当時の、そして後世の茶の湯にどのような影響を与えたのかを考察したい。

王悦之像再考 —恋愛シリーズを手がかりに— ……… 李柏黎

王悦之(劉錦堂、一八九四〜一九三七)は、台湾人として初めて、東京美術学校西洋画科に入学した画家である。一九二一年に美術学校を卒業し、他界するまで、一貫して中国大陸で活動したため、近代美術史の中では、台湾、日本、中国大陸のはざまで生きた極めて数少ない画家の一人である。日本では名の知られた画家というわけではないが、一九三四年に出版された王鈞初氏の『中國美術的演變』という書物において、王悦之は、鄭錦、徐悲鴻、林風眠とともに「現代重要的畫家」に挙げられている。王悦之は中国大陸にいた一六年間、様々な美術活動を行い、当時の西洋画界、そして教育界において、高い評価を得ていたのである。にもかかわらず、一九三七年、急に病を得て、四十三歳という若さで他界したため、一九八〇年代まで王悦之という画家の名は一時この世から消えてしまっていた。彼の作品と事跡が再び知られるようになったのは、一九八二年、中国の美術雑誌編集者である呉歩乃氏と、台湾の美術史研究者である謝理法氏が、ほぼ同時に王悦之に関する論文を発表して以来である。

以後、王悦之に関する論文が幾つか発表されてきたが、それらの論文は、王悦之に三つの異なった画家イメージを与えてきたように思われる。すなわち、日本の植民地支配、侵略によって運命を翻弄された画家、台湾と中国大陸のあいだで行き場のない民族的アイデンティティに苦しんだ画家、そして油画の民族化に力を注いだ画家である。中国の研究者たちは、主として彼の後期の作品−−《棄民図》(一九三四年冬、中国美術館蔵)と《亡命日記図》(一九三〇年末〜三一年初、中国美術館蔵)−−に重点を置いて、画家の「抗日の心境」と「油画の民族化」について多くのことを語り、台湾の研究者と言えば、画家後期の代表作である《台湾遺民図》(一九三四年夏、中国美術館蔵)に注目して、画家の「民族的なアイデンティティ」について多くのことを語ってきた。「王悦之」イコール《台湾遺民図》だと言っても過言ではないのが、台湾の研究者たちの王悦之像の現状である。しかし、王悦之の作品全体−−現在確認されている油彩画四二点、水彩画二二点−−を見てみると、抗日反戦やアイデンティティに苦しむという意味が込められた作品は前述の三作のみで、それ以外は、風景を写生したものや、家庭日常生活を描写したもの、そして恋愛を題材としたものなのである。

本論の課題は、これらのうち、恋愛をテーマにした一連の作品について、その主題を分析し、制作動機を検証することを通して、これまでにはない新しい王悦之像を描き出すことである。ここで、「恋愛をテーマにした一連の作品」というのは、王悦之が、一九二八年から一九二九年の間、北京を離れて杭州に赴き、国立西湖芸術院で西画(西洋画)系教授を務めていた時期に描いた六点の油彩人物画−−—《七タ図》(中国美術館蔵)、《灌漑情苗図》(中国美術館蔵)、《盪漿》(中国美術館蔵)、《香椽》(国立台湾美術館蔵 )、《燕子双飛図》(中国美術館蔵)、《芭蕉図》(中国美術館蔵)、−−を指す蘯。従来の研究において、これらの作品についての分析は極めて少ない。その原因としてまず考えられるのは、このような恋愛を題材にした作品は一般的に、国家意識が高まる一九八〇年代の台湾及び中国大陸の研究者たちにとって好ましくないモチーフだと考えられたからだろう。また、これら一連の作品の形成については、明らかに画家自身の身近な経験と密接な関係があると思われたにもかかわらず、画家に関する資料が欠けていたことも、その一因であったと考えられる。しかし、筆者は現地調査によって、画家の伝記的な資料を手に入れることができた。多いとは言えないが、これら一連の作品がなぜ描かれたのかについて明らかにする助けになると信じている。なお、以下において「恋愛をテーマにした一連の作品」を、「恋愛シリーズ」と呼ぶことにする。これは王悦之自身の言葉ではないが、王悦之は、これらの作品をそれぞれ関連付けて制作していたように思われるからである。

本論は、次のような手順で議論を進める。まず第一章で、王悦之の履歴と画業を概観して、その作品を三期(模倣期/変化期[表現主義]/成功期[写実主義])に区分する。第二章では、王悦之が杭州に滞在していた第二期[変化期]に描き、一九二九年、上海で行われた第一回「全国美展」に出品した《燕子双飛図》に焦点を合わせる。この作品は、従来、王悦之の故郷台湾に対するノスタルジア、或いは過去の恋愛への追憶を動機として創られたと考えられてきたが、同じく第二期に制作された《芭蕉図》と「対幅」である可能性を指摘し、新しい意味解釈が必要であることを主張する。第三章では、一方の《芭蕉図》に描かれた男性が王悦之自身であること、他方の《燕子双飛図》に描かれた女性が、第二期のその他の油彩人物画四点すべてに登場する王悦之の妾・郭淑霊(正妻の妹)であることを明らかにし、これら六点を「恋愛シリーズ」として一括して考察する必然性があることを主張する。第四章では、第二期に描かれた他の油彩人物画四点−−特に《七タ図》や《灌漑情苗図》−−の意味解釈を行い、それらが王悦之と郭淑霊の間に生じたさまざまな出来事−−結婚/妊娠/別離/出産/愛児の夭折−−を反映している可能性を指摘し、対幅としての《燕子双飛図》と《芭蕉図》もまた、「恋愛シリーズ」の一部として、別離の悲しみと愛児への追悼の念を表現しようとした可能性に言及する。おわりに、王悦之が杭州から北京に戻った後に描いた《科学與卵生》(所在不明)が、出産にまつわる特殊な物語を描くことを指摘して、第二期の一連の作品を、王悦之と郭淑霊の個人的な恋愛コンテクストにおいて解釈するという仮説の妥当性を検証する。このような作業によって、王悦之という画家は、アイデンティティに苦しみ、国のために心配していた人物であるだけではなく、実は、非常に浪漫的で、純粋で、恋愛に対しても情熱的な人間であったことを明らかにする。

リルケと青い花 —手段としての詩作から目的としての詩作へ ……… 池田まこと

ライナー・マリア・リルケ(Rainer Maria Rilke, 1875−1926)は、一九世紀末から二〇世紀という、急速に近代化が進みつつある、激動の時代のヨーロッパに生まれ育った詩人である。このような時代には、そのめまぐるしさに追われ、人と人とが互いに深く分かりあったり、一つのものと心を通わせたりするのが困難だったことは想像に難くない。そうしたさなか、彼の詩作の歴史もまた、自己と他者との調和を求めて歩んだ歴史といっても過言ではない。一九一三−一四年という後期の成熟への過渡期に制作された『夜に寄せる連詩(Gedichte an die Nacht)』もまた、同じ歩みを示すだろう。この作品は「夜(Nacht)」や「天使(Engel)」、そして「恋人(Geliebte)」を中心的なモチーフとした、二二もの詩から成る連作である。

本作品においてリルケは、自己と他者との調和をなす手段として「感情(Gefuhl)」に注目し、様々な表現をそれに与えている。中でも「あまたの夜から私は呼吸しなかったろうか(Atmete ich nicht aus Mitternachten)」(一九一三末)(以下「あまたの〜」)という作品のクライマックスとも言うべき最終節に登場する「青い亜麻畑」は鑑賞者の注意を引く。なぜならこの「亜麻畑」は、「青」というその花の色や、「亜麻」というその植物の種類が明確に示されることによって、感情を示す諸表現の中でも群を抜いて具体的な表現となっているからだ。またこのモチーフは「実った農作物を天使に捧げる」という、当時相次いで用いられた表現にも連なるものだが、それ自体は農作物の実りを予感させるに過ぎない「花畑」であり、一連の表現においても異色なものだといえよう。こうした特徴もさることながら、このモチーフが興味深いのは、彼の詩作の軌跡を追う一つの糸口となりうるからだ。というのも、この「亜麻の花」の「青」は、成熟期の傑作といわれる『ドゥイノの悲歌(Duinser Elegien)』第九歌(一九二二)における「黄や青のりんどう」の「青」と共通し、比較を可能にするからである。すなわちこれら「青い花」の比較を機縁として、詩人の成熟期の詩作における態度と、それまでの詩作におけるそれとの相違を、端的に示すことが困難だという研究史的現状を打破しうるのだ。しかしこれらの植物モチーフに関する詳細な研究自体が、未だ殆ど見られない。

こうした事情から、浮かび上がる問題は次のようなものである。すなわち、まずはとにかく「亜麻畑」と「りんどう」という各々の「青い花」のモチーフは何を意味するのかという問題である。更に、これらのモチーフが一九一三−一四年という後期に移りつつあるリルケから、二二年『悲歌』完成時のリルケへの詩作の態度の変化を示すとすれば、それはどのようなものであるのかということもまた、問題となろう。これらの問題を本論では順を追って扱うことにする。(なお、詩作品の引用はすべて、Werke : Kammentierte Ausgabe in vier Banden(Bd 2), Frankfurt a. M, 1996より訳出して行った)。

アンドレ・ブルトンの小説と芸術論における抒情性の解明 ……… 宇多瞳

アンドレ・ブルトン(Andre Breton, 1896−1966)は、一九二〇年代の詩と批評において「抒情的」lyriqueという語をしばしば用いている。抒情性を伴う行動、抒情性を伴う主張、といったように、彼はこの言葉を最初は彼の文学的な活動の中で用い、その後、文学以外の政治的行為を含めた運動の中でそれを用いることになる。ブルトンはオートマティスムによる作品『磁場』Les Champs magnetiques(一九一九年に雑誌連載、一九二〇年刊行)、ブルトン自身が物語の主人公となる小説『ナジャ』Nadja(一九二八)、あるいは『狂気の愛』L’Amour fou(一九三七)等の主要作において、この概念を物語の中核に置いて使用している。

抒情詩は叙事詩・劇詩とともに詩の三つの部門の一つとされ、主に詩人の内面、感情や情緒を主観的に表現した詩として近代以降の詩の主流を成すものとされる。象徴主義の詩人マラルメ(Stephane Mallarme, 1842−1898)の詩作におけるある種の思考が抒情性や抽象に関わることがあるという指摘もあり、抒情性という言葉はブルトンに限らず非常に多様に使われている。

ブルトンの文学作品で描かれるある種の「抒情的なもの」、つまり『シュルレアリスム宣言』Manifeste du Surrealisme(一九二四)におけるような芸術的主張、一九二〇年代後半〜三〇年代以降の政治運動、生涯を通じた詩的な思考などを特色付けるものとしての「抒情性」とは、いったいどのようなものなのだろうか。

考察は次の手順で進める。まず、第一章においてエーミール・シュタイガーの『詩学の根本概念』Grundbegriffe der Poetik(一九四六)から、「抒情的」という概念が詩学の立場においてどのように理解されているのか考察する。

第二章ではブルトンの作品を取り上げ、彼の詩や小説の「抒情性」について考察を行う。ここで考察の対象とするのは、ブルトンの代表作『磁場』、『ナジャ』、『狂気の愛』の三作である。「抒情的」lyriqueとは楽器のリラに由来する言葉であり、本来の意味では音楽との関連が深いが、ブルトンはそうした意味での抒情詩を書いてはいない。しかし自身の霊感に従って熱烈に詩作に取り組む情熱的な詩人であるという点ではブルトンは抒情詩人であると言えよう。ただ、ブルトンはそれだけではなく「抒情性」が「行動」であると強調する。第二章の結論として、ブルトンの主張、行動、思考が「抒情性」と結びつくのだということを指摘する。

第三章では「抒情性」を手がかりとしてブルトンの芸術論を読む。そして、「抒情性」の概念と近代芸術とを結びつける先駆的な詩人としてマラルメを例に挙げ、マラルメの詩にあらわれる「抒情性」が先行研究においてある種の「行動」と関わるものとして捉えられていることから、「抒情性」と「行為」が相互に関連し合うものであることを明らかにする。その結論として、「抒情性」が一九二〇年代〜三〇年代の前衛芸術運動におけるブルトンの文学作品と芸術論の特徴であることを示したい。

唐代美術の普遍性とその由来 ……… 曽布川寛

唐代の美術は、中国歴代の美術のなかでも、とりわけ普遍的な芸術として世界的な評価を得ている。これは唐代と相前後する南北朝、宋代と比べれば、その違いは歴然としており、唐代美術はその独特な普遍性の故に、世界中の人々から受け入れられ愛されてきたのである。では、唐代美術の普遍性とは具体的に何であり、唐代のどのような側面に由来するのであろうか。いまそれを考えるに当たり、唐代美術が最も栄えたおよそ八世紀前半、すなわち皇帝の治世でいえば、女帝として有名な則天武后(在位六九〇−七〇四年)の時代の時代が終わり、中宗・睿宗から玄宗皇帝にかけての時期(七〇五−七五五年)の美術を取り上げ、これを国際的普遍性と芸術的普遍性という両面においてとらえるとともに、それら普遍性の由来について考察してみたい。